KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

自己紹介のこと

ひとに自分が誕生日であることを報告するのが、わたしは苦手だ。ちょっと気恥ずかしい感じがしてしまって自分から言い出すことができない。だからといって、祝ってほしくないというわけでは決してなくて、むしろ、おめでとう的なLINEが殺到することを、心の奥底では待ち望んでいるのだ。だから、誕生日は、ちらちらと、祝ってくれないかどうか、LINEの通知を脇目に見ながら1日を過ごすことになりかねない。

こう、主役の立場に自ら躍り出ることに、若干の苦手意識があって、誕生日然り、自己紹介しかり、なかなかうまくできない。

 

note.com

「自分を売り込まなければ!」みたいな気持ちが強いときは、こういう自己紹介の記事だったり、お仕事募集記事だったり、書こうとするときもあるのだけれど、どうも疚しいことをしている気持ちになってきてしまって、筆が止まってしまう。このnoteの4年前の記事は、かなり雄弁に自分のことを書いているけれど、「もどき」止まりである。助成金なんかの申請書では、そういうゲームだと思って割り切れる自分もいるのだけれど、ブログやTwitterとかで、わざわざ自己紹介しようという気には、なかなかなれないでいる。

16personality診断(webの性格診断)とか、少し前に流行っていたけれど、自分の結果とか、すごく恥ずかしく感じてしまう。それに、その診断結果から溢れ出て、はみ出している、自己の過剰な部分が無かったことにされそうな感じがして、ちょっと恐ろしい感じがする。性格診断によるタイプ化にせよ、HSP等々のカテゴライズにせよ、言葉にしてしまった途端、それぞれが抱いているはずのドロドロとした部分(あるいは、バタイユ的に言えば「呪われた部分」)が、どうやら失われていくようである。

その点で、演劇や詩などを通した、自己のはみ出しをドロドロとしたまま形にするモノ化は、わたしにとっては、そんなに恥ずかしくないような感じがする。それはたぶん、演劇や詩が、整理整頓された言葉よりも、もう少し、身体の側に馴染んだ言葉の芸術だからなのだと思う。それらの分からなくてよさは、わたしたちのはみ出しを、それぞれのはみ出しのままにしておくことに繋がるだろう。

そういうわけで、2024年は、整理整頓されていない、詩の言葉での自己紹介をつくってみたいと思う。金はないけれど時間だけはあるのだから、そういう無駄な時間を大切にしていきたい。役に立つことは、それ自体でなんの役にも立たないが、無駄であることは役に立つでも立たないでもないのだから、無駄であることは、そんなことにびくともしない。わたしも、無駄であることに倣って、どこ吹く風でやっていきたい次第である。

 

 

 

亀川さんの「25歳のボーリング調査」、おもしろかった



 

ラジオのこと

わたしは、ダラダラとしゃべっている時間が好きで、ラジオやポッドキャストなど、比較的よく聴いているほうだと思う。ラジオは、かしこまって聴かなくても、聴きたいところだけ聴いておけばよいから、気が楽である。

映画や本は、やっぱり、観たり読んだりするためだけの、それ用の時間が必要だと思うのだけれど、ラジオは、他のことをしながら聴けるからよい。というより、聴いても良いし、聴かなくても良いように、ラジオは散漫なものとしてデザインされている。たとえば、オールナイトニッポンの作り手も、一晩中ラジオに正面切って座って聴いてる人を想定して作ってはいないだろう。メディア(コンテンツを伝える物理的なモノ)に身体が固定されず、寝落ちできる、あの感じ。あれが、ラジオのよいところだ。

ある時期、clubhouseというアプリもあったけれど、結局、あんまり流行らなかったようである。たぶんそれは、ラジオは、ラジオだけに注意を向ける聴かれ方が想定されていないがゆえに、「アテンションエコノミー」みたいな、注意をどう惹きつけ続けるのかという、いまのネットで支配的な経済圏(もしくは、「エートス」のような、より慣習に近いもの)と馴染まないからだと思う。
ラジオは、そもそも、注意散漫なメディアである。だから、アテンションを惹き続けることを良しとするような今の世の慣習に、そぐわない。それに、視覚的なメディアと違って、情報を得るのに時間がかかる。そういう意味で、ラジオは「タイパ」が悪いのだが、「タイパ」の悪さゆえに、メディアに身体が操縦されずに済むのが、ラジオの魅力である。


そんなわけで、Podcastを始めてみることにした。友達ふたりと私の3人で、好きなことを喋ったり、好きな人に来てもらって話を聴かせてもらったりする、とっても愉快なラジオになる……予定である。
この数年、わたしは、本を読んだりする時間を意識して増やしていたのだけれど、最近は、考えていることを、そのつどの形にして、世に開いていくことも大切なことのような気が、してきている。そういう、流れゆく思考に対して、ブログなり、ポッドキャストなり、演劇なり、少しずつ、形を与えていきたい。絶え間なく流れていってしまう、考えていることの中身が、一つずつモノとして残っていくのは、わたし(たち)の世界の足場を、少しだけ固めてくれる、かもしれない。

とりあえず、自分が、洗い物とかしてるときに聴きたくなるラジオを目指して、ゆるゆる、やっていきたい。

 

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私的・コロナ禍振り返り(舞台制作編)

Googleフォトには、数年前の同じ日に撮った写真を一番上に表示してくれる機能があって、コロナで中止になった公演の会場を下見に行ったときの写真がたくさん表示されていた。コロナ禍もいつの間にか終わりを迎えていて、最初に公演が中止になってから、だいたい、3年経った。


コロナ以前は、舞台制作を名乗っていた時期もあったのだけれど、コロナ禍で公演の数も減ってしまったし、参加した公演が中止になったときの徒労感を味わうのも嫌になってしまったので、最近は、辞めてしまった。

コロナ禍に入る直前の2019年10月に、わたしは、「Re: 制作の鈴木です」という記事をnoteに書いていた。
その記事によれば、舞台制作とは、つぎのような仕事である。

制作というのは、自分の好きな作品や才能を世に広める仕事でもある。
(中略)

自分がつなげなければ出会わなかった、人や、場所同士が、つながって、素晴らしい作品が出来上がっていく様を目撃するのは、制作冥利に尽きる。そういう意味では、アクティブに創作に関わっていると言えるのだし、好きな価値観を広めるという点で言えば、自分が作品を作るのと同じくらい、広めている。

制作というのは、そういう仕事である。

シンプルである。それに、なにか文章がピチピチしていて、ちょっと元気になる感じすらある。

ひと・場所(・金)を繋げて、新しい価値観を生み出して広めるのが制作だとして、今でも、そういう志向は私のなかにある程度残っている。人と人がつながってコミュニケーションが生まれること自体(なにも生み出さなくても)、楽しいことだと思うし、今でも、わたしはそういうことに時間を使いたいと思っている。

それでも、制作の仕事は、最近は、ほとんどやらないようになってしまった。


それには、やっぱりコロナ禍で公演がたくさん中止になったりしたことや、リスクを孕みつつ公演を企画することについて、あれこれ、考えさせられたからのように思う。


自分のnoteを読み返していると、コロナ禍ごろから、どんどん不安定になってきていて
面白い。とくに、2021年10月に書いていた「舞台制作者と芸術と傷と」という記事は、文体も含めて、結構メチャクチャである。

新自由主義が、明示的/非明示的であれ、自己責任論として社会全体の倫理に変容していくとき、芸術の制作者は、アートを通じて連帯を作ることで、ささやかな抵抗を試みることが、できるかもしれない。趣味縁的な繋がりを意図的に作って、劇団の存続を試みると同時に、社会的意義に訴えかけることができるかもしれない。このこと自体、確かに、社会に対する対症療法として意義があるだろう。
他方で、私は、アートを出汁に鍋を囲むことが、社会を変えていく切実な活動でありうるのかどうか、今、分からないでいる。柳美里が言うように、徒党を組まないとやっていけないような芸術家を、私は芸術家と認めたくない。
(中略)
舞台制作者は、芸術と商業の境界線でしか活動できない。自身が境界線上にいることを忘れた瞬間、彼が制作者として芸術に関わる意義は失われてしまうだろう。
芸術が「鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させる」一方で、制作者は、集団の存続のために、人と作品、人と社会とを連帯させようとする。そのような意味で、やはり、舞台制作者は、彼が誠実な制作者である限り、イスカリオテのユダたらざるを得ない。

そうであるならば、と書こうとして、手を止める。

そうであるならば、どうすればいいんだろう。
皆目見当もつかない。

つまり、アート関係者同士(だけ)が仲良く過ごしている繋がりを制作者的に作っていったところで、芸術に求められる「新しい価値観」はけっして生まれないのだから、「つながり」を作るだけの制作者は、劇団存続の条件ではありえるかもしれないけれど、芸術本来の活動と両立しないよなあ、というようなことを考えていたのだった。それに、「趣味縁的なつながり」が、どれくらいコミュニティとしての相互扶助の機能を持ちうるのかも、じつは結構怪しいように思う。ギャラのつながりはギャラのつながりでしかない。

アートマネジメントは、社会という庭に「価値観」の種を植えて育てるようなものだろう。育ててみたら、とんでもない木が生えてしまった、ということだってありうるように思う。……と考えると、やっぱり、作品の中身(作品によって提示される価値観)に対しての批評的な視点は、芸術家という木だけでなく、その木を育てる制作者にとって必要不可欠なはずで、だとしたら、エネルギーを使って、世に広めるべき価値観とは……???

 

……とか、なんとか、ややこしいことを考えていて、がんじがらめになっていたコロナ禍だったように思います。

最近、読書会ばかりやっているのも、こういう経緯で、もう少し、自分で考えるための足場が固められたら、現場に関わる時間を増やしていきたい次第です。

 

いまは、どこかの劇団に入って制作「だけ」をやることは、全然、頭にないのですが、お声がけ頂けたら、いろいろ、手伝いとか、作品の題材に関するリサーチとか、出演でもなんでも、(関心に合う範囲で)やりたいと思っておりますので、どなたでも、お気軽にご相談くださいませ……。

 

(結局、「お仕事募集」の記事みたいになってしまった……!)

 

 

 

公演会場の下見で撮った4年前の写真。公演は中止になった。

 

 

 

 

 

イラッとすると、ついついゲームしたくなっちゃう病

タイトルの通りである。

どうも、ストレスが溜まると、わたしはゲームをしたくなってしまう。これといって楽しいとか、そういうわけではないのだけれど、「ストレスが溜まったらゲームの世界に逃避せよ」というような指示が、おそらく、青年期くらいから、わたしの身体のなかに埋め込まれている。これをわたしは、「イラッとすると、ついついゲームしたくなっちゃう病」と命名している。

10月は、忙しかった。研究は全然進められなかったのだけれど、ストレスが溜まっていたせいか、やっていたゲーム(「ゼルダの伝説」の最新作)はどんどんと進み、気がつけばラスボスがやっつけられていた。ただ、楽しんでやっているわけでもないので、あんまり内容は頭に入っておらず、わけもわからないまま大きなドラゴンみたいなのをやっつけて、クリアした後にYoutubeでストーリーの全貌を知る、というような有様である。

ゲームは、やることが明確だから楽しいのだと思う。ゼルダであれば、とりあえず魔王を倒せばよいわけだし、パワプロ(野球ゲーム)であれば、相手チームに勝っておけば良い。「強さこそ正義!」みたいな、弱肉強食を謳歌できる世界観。勝利という目的のためには4番に送りバントすら厭わない勝利至上主義。サディスティックにボコブリン(ゼルダに出てくる雑魚敵)の集落を襲撃する悦び・・!人間がわたししかいない世界の特権である。

・・と書きつつ、やっぱり、それほど面白くないのである。じっさい、11月に入って少し生活が落ち着いてきて、それほどストレスが掛からない生活に戻ってからは、気がつけばSwitchはどこへやら、今日は本ばかり読んでいた。

忙しくなればなるほど、いや、生きるための時間が増えれば増えるほど、身体が、動物的な悦びを求めるようになってしまうような気がする、すくなくとも私の場合はそうだ。たぶん、ストレスで二郎系に行っちゃうみたいなのも、そういう心理なのだと思う(わたしは二郎ラーメンに行ったことがないので想像だけれど)。たぶん、生きるための欲望と、動物的な衝動とが、深いところで結びついてしまっているのだ、わたしたちは。
生きるための労働を重ねて、ストレスが積もれば積もるほど、そういう、(ゲームのなかで)ボコブリンやライネルをボコボコにしたり、野球ゲームでサヨナラスクイズを決めて絶叫して喜んじゃう、自分の中の根源的な動物性を垣間見させられるから、やっぱり、忙しくはありたくないものだと思う次第です。

 

ひたすら喋っていた、窓から。わたしたちにはおしゃべりの時間がたりない



演劇のチケット代や、読書会についての覚え書き

10月は、わりと、働いていた。
わたしは、これまで平日(働く日)よりも休日のほうが多い生活しかしたことがなかったから、はじめての働く日の方が多い10月は、身体がなかなかついていかず、2回も体調を崩してしまった。自分の専門性が発揮できる仕事はたのしいけれど、そうではない仕事もあって、なかなか折り合いが難しいよなあと思う。

食べるための仕事を手に抱えつつ、傍目に「活躍している」同世代の社会学者のTwitterなど見てしまったりして、(そういう競争はくだらないなと思いつつ)気持ちだけが、ちょっと、焦ったりする日々を過ごしていた。


小劇場演劇のチケット代がどんどん上がりつつづけていて、それはコロナ禍の助成金バブルで上がった俳優のギャラを、雇い手(劇団)の側が下げられなくなっていることに原因があるように私は思っているのだけれど、そうなってくると、観客は減って全体のパイは縮んでいくよなあ、と思ったりする。推測ではあるけれど、観客の数の減少に伴って公演の数も減っていって、大きな制度的な枠組みから庇護された小劇場(と劇団)だけが生き残っていくのだろう、と思う。そうなってしまってよいのかどうか、ちょっとわたしには判断つきかねている。

 

(わたしがやってきた)演劇の場合だと、すでに企画された公演の上演に必要な人たちを集める、ということが多かったように思う。そういうやり方は、たしかに「キャリア」とかを安全に築いていくためには役に立つのだと思うけれど、このやり方の裏側には、「人材」派遣的な発想が紛れ込んでいて、人間と人間の関係性をつくることを難しくしているように思う(つまり、そのとき、人間は「材」でしかないので)。
人間と人間が、人間として集まることのできる演劇という芸術に、そういう発想は本来馴染まないはずで、それを持ち込んでしまうことの歪みが、(少なくとも)チケット代の上昇という形で(も)現れているのだろう。まず人が集まって喋って、それから企画が始まるのでなければ、いくらルールを決めたところで(or 決めるほど)、人間同士の関係性に入ることは難しい。

そういうわけで、この1年くらい、わたしは読書会を開催しまくっている。読書会のいいところは、本に書かれていることに託けて、普段喋ることのできない思いの丈を喋ることができるところだと思う(「アカデミックな」読書会はこの限りではないと思うけれど)。誰かが何かを教える、みたいなふうにならないところもよい。つまり、なにかの最終成果物のもとに集まるのではなくて、ただ集まって喋れるところがいい。

最終的に、なにかの企画に繋がれば嬉しいのだけれど、まずは、気長にだらだらと続けていくつもりである。

 

そんなわけで、読書会、参加したい人(あるいは、いっしょにやっても良いという方)は、もしいたら、連絡くれたら、うれしいです。
よろしくお願いします。

 

 

 

はたらく「かお」、ちがった「見え」

9月末で大学院生を終えて、労働の日々が始まった。とくに10月限定で、いろいろ仕事を詰めすぎていて、研究や芸術のことは全然進まなかった。それまでは、「学振」の特別研究員として給料をもらって研究していたし、そのもっと前(2020年まで)は演劇の劇場周りをふらふらしてお金をもらっていたから、「ザ・労働」をするのは、じつは3年ぶりくらいである。


労働するようになって、少し顔が老けたような気がする。
わたしは働いているときの自分の表情、が、あんまり好きではなくて、家に帰ると顔の周りがこわばっているのを感じる。研究室にこもって好きな本を読んで、ずっと好きな芸術に関わっていられたらいいのになあ、とおもう。(こんなことばかり考えているから、わたしはいつまでも子どもみたいな顔なのだと思う)「顔の形が変わってしまう前に、労働から離脱せねば!」と思ったりもするのだが、さいわい、来年の2月くらいからは、また研究がメインの生活に戻れることになった。まだしばらくは、童顔のままでいられそうである。

そういうわけで(?)、ハンナアーレント(という哲学者)の「人間の条件」という本を読み返している。アーレントの言っていることの一部を、わたしなりに噛み砕いてみると、つぎのようなことだ。つまり、人間が、コミュニケーションを取ることが可能な状態で、なおかつ、それぞれのままで(一つの全体に回収されずに)居られることを支えている条件があるのだとしたら、そのうちの一つとして、ある「同じ」出来事を、それぞれが「異なった」視点のもとで見ることを、互いに認め合っているというこということがある。つまり、ある「同じ」絵がウサギに見えたり、アヒルに見えたりというように、「異なって」見えるということを認めつつ、それをもとにコミュニケーションを取っていく、ということである。もし、そもそも、ある出来事が「同じ」出来事であることすら分からないのだとしたら、そもそもコミュニケーションが成立しない(だろう)し、逆に、同じ出来事を同じようにしか見ない人たちの間でも、コミュニケーションは行なわれないだろう(そのときでも、みんなで「ハイル」とは言うかもしれないが、それは、ここで呼ぶコミュニケーションではない)。

(何度でも書くけれども、)わたしたちは、同じものを違うように見るからこそ、コミュニケーションできる。このことは、わたしたちが、異なる人間であるということを支えている。そして、わたしたちは、同じ性質を持ち合わせていなくても仲良くできるし、仲良くするために同じところを見出していく必要もない。


人間に備わった性質(や本質)について語ろうとすると、わたしたちはどうしても、「人間はみな同じだ」というところに行き着いてしまいがちだけれど、それは、「人間と石は形を持つ(延長している)から同じだ」「有機体はみな同じだ」ということに等しい(つまり、なにも言っていないようでいて、静かに、べつの主張が忍び込んでしまっている)。そうではなくて、いま一度、ある出来事が、わたしにとってどう見えるのか(もしくは、どう感じられるのか)を言葉にし合っていきたい。わたしたちに共通する性質ではなくて、わたしたちの間で異なる知覚について語っていくほうが、きっと、面白いだろう。

このとき、知覚をなにか、共有可能な富のように考えたくなってしまうかもしれないけれど、そうではなくて、そもそも知覚なんだから、共有できるわけがない。わたしたちが世界のなかで、どこかしらの居場所を占めている限り、同じ場所から同じ遠近法のもとで同じテーブルを眺めることはできないのだ。知覚が永遠に共有できないからこそ、わたしたちは、永遠にコミュニケーションし続けることができる。

 

こう、哲学のことなど書こうとすると、ちょくちょくアジテーションっぽくなって、わたしの生活の言葉からどんどん離れていってしまう感じが、よくない。アーレントの名前を出しておきながら、自分の話をしている節すらだいぶある。衒学的になればなるほど、ちょっとバカっぽくなってしまう哀しさがある……。とは思いつつ、キーボードを叩いているとアーレントに吸い寄せられてしまうくらいには、顔のこわばった私にとって、アーレントは魅力的なのかもしれない。

 

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よるべなし、ひとりなんとか

「ひとりなんとか」をやりたい。というか、やる、やることになっている。「なんとか」というからにはなんでも良いのだけれど、おそらく演劇のようなことになるのではないかと思う。ギターになるかもしれないし、踊りのようなものになるかもしれないけれど、とりあえずは「なんとか」と呼ぶだけの余白は持っておきたい気がする。

先月から、「ひとり芝居」だったり、野外演劇だったりを見ていて、わたしは、それらの自由さに、ちょっと憧れてしまった。いや、わたしはわたしのなかで勝手に、なにかを作って発表することのハードルを、勝手にあげていたことに気づいた。だから、憧れというより、みなが持ちうるはずの自由さを、わたしが勝手に思い出したということに近いかもしれない。大金をはたいて劇場を借りたり、制作さんや照明さんにお金を払って手伝ってもらったりしなくても、何かつくることはできるはずなのだ、ほんとうは。

 

9月いっぱいで、大学院を卒業して、特別研究員という仕事(?)も終わり、メールの名前の前に書くような肩書きがなくなったのだった(つまり、「千葉大学 鈴木南音」みたいな、名前の前の肩書きをわたしは失っている)。生活の不安定さをそこそこ感じなくもないのだけれど、でも、この不安定さは、後ろ盾のなさでもある。わたしは、誰かの顔を窺って喋ったりしなくてもいいし、気に食わないことはすぐにでも怒ってもよいのだ(とはいえ、わたしは怒るのが苦手なのだけれど)。

こういう、後ろ盾のなさを、今のわたしは、ひとまずは大切にしたい。好きなことを書いてやれるし、動員とか評判とかもそもそもゼロに近いので気にしなくてもよいのだし、つまらないと思われても石を投げられることは(たぶん)ないだろう。

なんにもないのだ、わたしは。だからこそ、わたしがおもしろいものを作ってコケても、(たぶん)恥ずかしくない。芥川賞ならぬ、「わたし賞」だけ取れれば、いまはそれで十分である。

そんなわけで、よるべなきまま、「ひとりなんとか」、やっていきたい。

 

 

夜の高円寺、一人芝居を見た