公募に出していた「訥」という現代音楽の譜面が、審査を通過し、アーツコレクティブのRosettaさんに上演してもらえることになった。ありがたいことです。
この作品は、簡単にいえば、明確な議論の舞台に載せられる資格を得ることのなかった「声」を、フィラーに見立てて、あらためて舞台上に載せようという作品である。(これについては、この記事でも書いていたので、詳しくは割愛するhttps://minartsuzuki.hateblo.jp/entry/2023/06/29/232304)
現れることのできるということ、それ自体が持っている特権性や、現れているもの/隠れているものという構造に、自覚的でありたい。
「弱い (とされた)側」が、どこかに実在している「強い(とされた側)」を転覆させて、新しい秩序を作っていくという話は、確かに分かりやすいのだけれど、なにか、「強さ(もしくは弱さ)」が言語に先立って実在しているかのような、本質主義的な匂いが漂っていて、そうした運動は、人格化された権力者を絶えず措定しながら進められているという点で、今後、あまりうまくいかないだろうなと思う。(そんなに権力って単純じゃないので。)
わたしがこの1、2年、演劇に対して食傷気味なのは、まさにその点で、複雑な現実を教科書的なフレームに押し込めている限りは、捨象されたクリアなユートピアは見えてくるかもしれないけれど、具体的でカオスな現実は見えてこないだろうな、と思う。「家族社会学ケーススタディーズ」みたいな演劇に、わたしはあまり興味が持てない(いや、少し毒舌すぎるかもしれない)。
何度も書くようだけれど、すでに顕になっていることではなくて、隠れているものを顕在化させていくことに芸術の価値が(あるとすれば)あるように思っていて、そういう作品を観てみたい(もしくは、作ってみたい)です。
そういう背景のなか、同じような問題意識を持つメンバーで、共同で制作した作品が、こうして公募を通過して上演されることになったので、大変嬉しく思っています。5/12 京都市立芸術大学 多目的ギャラリー にて、上演していただきます。よろしければぜひ。