KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

「批評のインフラ化」についての覚え書き(独立した相互批評のネットワークを作ることができるだろうか)

「批評のインフラ化」というのは,演劇批評家の植村朔也さんが『月がきれいですね』に寄せた批評のなかで用いた言葉である.

演劇の上演団体が,公的な助成金を獲得するにあたっては,批評を書いて「もらう」ことが効果的であり,批評は,上演を経済的に成立させるための基盤となりつつある.そういう意味で,批評はインフラ化している.

 

www.engekisaikyoron.net

 

(わたしは,植村さんが言及している内野さんのテクストを読めていないので,内容を掴めているか自信がないのだけれど,)面白く読んだ.だから,今日はすこし,考えたことを覚え書きしておきたい.

概ね,植村さん(や内野さん)の言っている通りのことが起こっているようにも思う.批評のニーズは,演劇団体にとって,強まっている.

ただ,2020年代においては,市場原理に淘汰された演劇/助成金によって支えられる演劇という区別のなかで,後者の枠組みで批評のニーズが強化されているというより,むしろ,前者の市場原理のなかでの批評が再評価されつつあるという印象も,私にはある.というのは,劇団の広報の中心がSNSに移行するにつれて,宣伝材料としての(あるいは,観客が観劇するかどうか検討する材料としての)批評が集客のために(つまり,市場原理の道具立てとして)利用されるということが,わりと頻繁にあるように思われるからだ.

「批評」と呼んで良いのか分からないけれど,「SNSで感想をぜひつぶやいてください」的なマーケティングの延長線上に,(少なくとも上演団体側にとっての)批評は,移行しつつあるようにも思う(それもまた,ある意味で「インフラ化」と言って良いとは思う).それが良いことなのかどうか,ちょっと私には今は分からない(作品の質の評価を,金銭を媒介とした市場原理に委ねることに繋がるとは思う).

 

 

別の論点として,私は,どちらかというと,日本の小劇場演劇の業界が,独立した,相互批評のネットワークを形成できていないという点に一番の問題があるように思う.たとえば,そういうネットワークができている例として,アカデミアのピアレビューの文化(論文の質を,原則匿名の相互レビューによって審査する制度)は,ある程度はうまくいっているように思う.それは,アカデミアのネットワークが,政治や経済といったネットワークから慎重に距離を取り続けている結果だろう.(もちろん,その閉鎖性が問題になることも往々にしてあるわけだけれども.)

他方で,小劇場業界が,ピアレビュー的な(内閉的な),作品の質を審査する制度を作ることができているかと言われると,あやしい.作品の作り手同士が,相互に忌憚のない感想を伝え合うことすら,わりと,心理的ハードルが高いのではないかと思う.たとえば,普段からお世話になっている劇団を批評するのは,勇気がいる.一回だけ観た作品を,すべて理解しきれているかどうか自信を持つことは難しいし,頓珍漢な感想を伝えて嫌われてしまっては,つぎの仕込みの手伝いをお願いすることは難しくなるかもしれない.変なこと言って,こちらの演劇も観に来てくれなくなってしまうかもしれない・・.推測であるけれども,作り手同士が,作品の中身について,時間をかけて感想を言い合う文化が,(劇団にもよるだろうけれど)それほど浸透していないように思う.
そういう意味で,作り手同士の純粋なピアレビューに支えられた,独立した相互批評の場を,まだうまく作ることができていないのだと,わたしは思っている.専門的批評家に依頼して劇評を書いてもらい,助成金獲得のための資源を得るというのは,そうした作り手同士の相互批評の場を作ることが,未だできていないということの結果なのだと思う.

 

……だから,なにか,そういう,作品の作り手同士の相互レビューの仕組みができたら良いのではと,私はよく思ったりします.(それは,Twitterハッシュタグ付きで感想を呟くというような話ではなく.もう少し,内容に踏み込んだ感想をわたしは読みたい.)

もちろん,演劇の作り手は,批評したり,批評されたりすることに,かなり警戒感を持っているようにも思う.作品の質について語ると,キュレーターぶった嫌な奴みたいに扱われるのも分かる.だけれど,むしろ,そうしたことを,ある程度は自分たちでやっていかないと,作り手のコミュニティの側で決定権を持ちえたはずの作品の質の基準を,市場の評価(動員数など)や,助成金申請書の作成の巧拙,もしくは(カギカッコつきの)「社会的意義」等の倫理……など,外から持ち込まれた基準に委ねてしまうことにもなりかねない・・と私は思う.(実際,半ばそうなっているように思う)
観客の持ちうる時間的・経済的資源が有限である以上,観劇にあたって作品の質の順序付けは行なわれているわけで,その順序付けの基準を,自分たちの側で確立できるか,ということに問題はあるような,気がする.
金を貰っているかもしれない批評家ではなく,作り手同士の評価を基準に,おもしろい演劇を見られる環境になったら,演劇が観に行きやすいなあ,という話でもある.

言うは易し,行うは難し,という感じであるけれども,植村さんの記事を読んで,そんなことを思いました.(いずれにしても,そのあとの取り組みも含めて,面白い議論だな,と)

(わたしのこの記事も)ほかの議論の呼び水になれば,さいわい.