生活でも、なんでも、あたらしいモノやアイデアにわたしは飛びついてしまいがちなのだけれど、つくづく、気をつけたい。
勉強してからでないと何かを始めてはいけないとは思わないけれど、なにかについて語ったり、作品のための材料にするためには、やっぱり、それ相応の勉強は必要なはずで。いろいろなことに対してスピード感が求められて、つぎつぎ、論文やら作品やら発表しなければ生きていけなくなってしまうことは確かなのだけれど、自転車がギリギリ倒れないくらいの遅さで、生きていきたいなァ、と思う。うまく生きることは、所詮うまく生きることで、それは舗装されたサイクリングロードを自転車でスイスイ走っていくことに似ている。なにか途中で、うまい団子屋に立ち寄って、サイクリングのこととか忘れて飽きて途中で戻ってくるくらいの生き方でいたい。勉強こそがおもしろいはずなのだ、ほんとうは。
目的地から目的地へと、つぎつぎステップアップしていく、という生き方も、それはそれで楽しいのだろうと、(皮肉とかではなく)思う。わたしもタワーマンションとか住んでみたい、景色がいいところは好きだから。ただ、とはいえ、そういうゲームはわたしは始めなかったのだし(始めたとしても、おそらくタワマンには住めなかったとおもう)、できる限り遅く、その場で起こっている景色を味わいながら、ぼちぼち老いていくのも、よいだろう。どうせ、大した目的地なんて、最初からないわけで。スタートもゴールもない円環のなかで、ぐるぐると、ぼんやり、さまよっていたい。
そういう意味で、なにか、ぼんやりした演劇、それはパフォーマンスでもなく、こむずかしい美学的な講釈なんちゃらでもなく、そっけなく、ぼんやりした、そういう時間、どこにも行かない舞台作品を作りたい。むしろ、どこにも行かぬ、ぼんやりとしたそれこそが勉強のはずで、勉強を手段と考えている限りは、永遠にお団子はたべられないから。
たまにしか寄り道ができない自分への戒めとして……。
豆からコーヒーを挽くとおいしいということがわかった