KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

はて、読みにくい自己紹介

期せずして、前回に引き続き、自己紹介について、書く。

ただ、いろいろ書きすぎると、へんにストーリー化してしまう嫌いがある。たしかに、ストーリー化して物事を語るのは簡単だし伝わりやすくもあるのだろうけれど、ストーリーであればあるほど、どの自己紹介も、大体、おんなじになってくるように思われる。ストーリーの文法は、思っているよりも強いのだ。

だから、今日はストーリーにならぬように、「読みづらい自己紹介」を書く。

まず、わたしは、社会学者を名乗ってもよいということになっている。今年の9月にPh.D(博士号)も取れた。ただ、社会学者を名乗るにしては、わたしはまだまだ不勉強なところがたくさんあるから、ちょっと気恥ずかしいところもあって、自分の職業を書くようなときには、とりあえず「教員」と書いたりしている。(「大学教員」というのも、ちょっと気取っていて恥ずかしいと思う。)そう、大学の非常勤講師の仕事が、9月から始まったのである。はっきり言って、わたしは、できれば働きたくないと思っている。家で好きな本を読んで、映画を観て、ときどき演劇などを作って生活していければ、それだけで十分である。食事をしたり、家を借りたりしなくても生きていける社会の仕組みが開発されれば、ぜひ、そうなって欲しいものである(その場合でも、おいしいものは食べたいのだけれど)。家賃もできれば払いたくないし、光熱費や水道代も保険料もできれば払いたくない。タダで生かさせてくれよと思う。「仕事がたのしい」という人ももちろんいるだろうから、そういう人たちに仕事は任せておいて、わたしは、やっぱり、家でゴロゴロしていたいと思う。そもそも、わたしは中学校もろくに通っていないものだから、集団生活みたいなものが、根っから、できない。大学生くらいまでは俳優もやっていたけれど、演劇の台詞を覚えて演出家の指示に従うのでさえ、勝手に動いたり喋ったりできないのが嫌になって、やめてしまった。ひとが、ひとの前で喋るのに、どうして決められた決まりに則って喋らないといけないのだろう!演出方法について一貫したドラマツルギーはあってもよいかもしれないけれど、喋り方や動き方にまで介入してくるなんて、余計なお世話ってこった。ぷん!何年か前に、劇場のワークショップで、不登校のときの経験を話させてもらう機会があって、なるべく暗くなったり明るくなったり、勇気づけるようなストーリーになったりしないように、嘘をつかずに喋ろうと思って、とくになにも決めずに喋り始めたのだけれど、「ただただ、将来どうなるか分からなくて不安だった」みたいなことしか喋れなかったような気がする。自分が中学生のとき、千原ジュニア不登校だったみたいな話をされて、だからなんだよ、みたいなことを思っていた。ひととひとは、違う。勝手にひとまとめにしないで欲しい。だから、あんまり明るくならないように話したのだった。最近は、不登校については、社会問題としての理解が深まっていて、家の前に同級生が来て欠席の手紙を毎日届けに来るみたいなことはなくなったようだけれど(私のときはすごく嫌だった)、それでも、社会のレールから一度大きく外れてしまう経験は、なんらかの形で、よかれ悪かれ、その後の人生を左右するものだよなあと思う。そんなわけで、わたしは思春期の初めで、大きくレールから外れたものだから、それ以降、あんまり「人とおんなじ」でないことに恐怖がなくなってしまったのだった。大学のときに同期が就活をしているときも、たしかに自分なりに焦ったりはしていたのだけれど、進路も決めないまま、ぼんやり、漠然と不安になりながら過ごしていた。それは自由ゆえの不安である、と頭のなかのサルトルが言ってくるけれど、当時は不安になりすぎて不眠症になり、うつ状態になっていたのだった。(心の病院は2回予約したけれど、当日になって行くのが怖くなって、無断で行かなかった。さぞ迷惑だったのではないかと思う、すみません。でも、自分の心が「病気」扱いされるのって、なんだか嫌じゃありませんか。)大学は、面白いこともたくさんあったけれど、基本的には何もなかったように思う。わたしは高校が、それなりに特殊で、芸大に行く人もいれば、プロ野球選手になるひとも時々いるような学校で、時間割も自分で自由に組んでよいところだったから、それなりに納得感を持って通っていたのだった。演劇を始めたのも高校からだった。そういうわけで、高校には、(受験期以外は)面白がって通っていたのだった。受験期は、先生も生徒も、東進ハイスクールの講師みたいなことを言い始めるようになったので、卒業が危ぶまれないくらいのギリギリでサボりまくっていた(細々とサボりを積み重ねて、合わせると1ヶ月くらいは休んでいた)。ただ、なべて高校は楽しかった。それでいて、大学は一転、高校の自由さとのギャップもあって、ちょっと期待していたのとは違っていた。わたしが入学前に聞いていた話だと、大学は授業中に後ろの方でギターを弾いている人たちがいて、キャンパス内でセックスしている人がたくさんいる、ということになっていたので期待して入学したのだれど、全然、そんなことはなかった。あるいは、太宰治に憧れて、途中で大学を辞めようとと思って、退学届を入学式の日にもらいに行ったりもしたけれど、結局、辞めることはなかった(もし、太宰治と同じ、東大の仏文科に受かっていたら、辞めていたのではないかと思う、あまり賢くなくてよかった)。大学時代は、大学の制度があれこれと変わっていくような時期で、途中で授業料が10万円値上げされたり、大学の寮が取り壊しになって困る人がたくさん出たようだった。だけど、声をあげるひとは、周りにはいなかった。わたしも、もっと戦うべきだったのかもしれないと今になっては思う。大学を卒業して、とりあえず大学院に進学して、どう、演劇を続けていくべきか迷っていたところで、大学の同期から誘ってもらって、ぺぺぺの会という劇団に参加したのだった。声をかけてくれた人は、俳優として私に出て欲しかったようだったけれど、あんまり俳優はもうやりたくなかったから、制作として参加したのだった。劇団の制作は、なかなか面白かった。思いつくことはなんでも次の日にはやれていたし、全然会ったこともないような人たちと友達になれたから、よかった。制作としての仕事は、劇団の成長や維持といった、作品の中身以外に関わる全般のことだった。仲間が(いろいろな大人の事情で)辞めないですむような、働かなくても楽しく過ごせる場所を作っておきたかったのだけれど、あんまりうまくいかず、わたしも結果として辞めてしまったのだった。わたしはぺぺぺの会にも(それなりに)ムカついていたけれど、どちらかというと、あやふやな演劇業界に対してムカついていたのだと思う。そういう演劇業界の作品、ほんとうに困っていたときの昔の自分に見せたいかと言われると、あんまりそうは思えなかった。1歩、いや、3、4歩くらいは下がって、自分のやってきたことだったり、芸術のことだったり、社会学のことだったり、本当に勉強しなければ、と思ったのが2021年だった。気がついたら、全然ほかの人と違う動きをしていてびっくりした、ということが体操なんかをするとよくあって、演劇のワークショップとかでも、みんなと同じ動きをするのが結構苦手だ、わたしは。あとでビデオで見ると、わざとやってるのかというくらい、自分の動きだけ変だったりする。体育の授業とか、剣道で型を覚えないといけないやつとか、苦手だった。演劇やダンスの振り付けを覚えるのは、今も苦手である。セリフを覚えるのも苦手だった、演劇とか向いてないのかもしれない。演劇の面白いところはたくさんあるけれど、人と人が集まって喋りながら作るところだよなあと、わたしは思う。だから、あんまり作品の完成されたあとの質は、そんなに作っているときの私にとっては大切じゃないような気がしてきていて、集まって喋る口実くらいのノリで、演劇とか、できたらいいのになあと思う。いいじゃありませんか、たかだか、演劇なんだから、そのくらいで。とはいえ、質や評価を求めてしまいがちな、こざかしい自分もいて、自分のなかで折り合いをつけるのが難しいこともある。ちゃんと自己満足するのが大切だと思いつつ、変に他己満足(タコ満足って、ちょっと美味しそうですね)を求めてしまうから、よくない、よくない。タコ満足を求め始めた時点で、なにかサービス業的に、働くことが始まってしまう。労働嫌いの自分としては、許せる事態ではないのであります。うかつにタコになって働いてしまわないように、気をつけよう。ある人が、全然違うように見えたりするのも、演劇の面白いところだ。それがないところのものである、とか書きたくなるけれど、単純に、日常のちょっとした動作を変えるだけで、まったく意味が変わってしまうところに、演劇の魔術的な面白さをわたしは感じてしまう。こういうとき、研究のことについて何かを書く気にならないのは、たぶん、研究のことは、論文なりで、きちんと発散されているからなのだと思う。小さいころ、だまし絵がたくさん載っている絵本(「ふしぎな絵」)という本が、わたしにとっては、ほんとうに不思議で、何度も読み返していた。わたしは、知覚について、とくに研究していて、図とか地とか、そういう現象学的な問題について社会学の方法から考えているのだけれど、なにかそのあたりに、自分のルーツがありそうな感じがしないでもない。演技もそうだけれど、同じ人や同じ絵が、ある文脈に置かれると全然違って見えるのって、わたしにとっては不思議で、魔法みたいだな、と思う。小学生の頃には、ハリーポッターが好きで、魔法使いになりたかったけれど、わたしは、今もじつは、魔法使いになりたいと思っているのかもしれない。ウィンガーディアムレビオーサ。(あなたのはレヴィオッサー。)

 

 

・・あんまり遡ったりぜずに一気に書いたので、一応、ストーリーにはなっていないような気がしている。(とはいえ、なんとなく整理もしてしまった自分もいる)
昔のことは、細かいことは忘れてしまうし、変に語れば語るほど、勝手に着色されていって、捏造されてしまう。(いや、書く以前の、頭のなかにある過去の方も、捏造されていない証拠とかもないのですが。)もうちょっと、ぐちゃぐちゃのままに書けたらとも思うのだけれど、時間が経つにつれて、記憶は整理されてしまった。

自分のことを読み易くせず、逆に、ほかの人のことも、読みやすく理解しないよう、分かり合えぬことから、やっていきたい次第であります。