KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

グレーゾーン、社会的意義、ドラマトゥルクのこと

 今日は、ドラマトゥルクについて今考えていることを、芸術の社会的意義という観点からまとめてみたいと思います。
 とくに、芸術に関しての社会的理解があまり得られているようには思えず、芸術業界と社会一般が遊離してしまっている現状もあるように思われますので、その点において、ドラマトゥルクが果たしうる役割について、今考えていることをまとめてみました。

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 芸術の社会的意義を考えるときに、まず、二つのことを考える必要があると思う。つまり、その作品がやろうとしていることは、(1)芸術にできることかどうか(2)芸術にしかできないことかどうか、である。

 (1)「それは芸術にできることかどうか」の方は、はっきり言って、簡単である。たとえば、観光客を誘致するために地方で芸術祭を開いたり、分断が際立つ社会のなかで連帯可能な、小さなユートピアを作ってみたり、ということだ。
 芸術には、「やりがい搾取」の問題などを孕んでいるものの、主に経済的な観点から、さまざまな形で効果があるということが、だいたい実証されている。だから、地域アート然り、芸術の経済的意義について、改めてここで詳しく論じ直す必要は、差し当たってはないと思う。
 芸術は、(それが芸術にしかできないかはさておき、)役に立つことがある。演劇はコミュニケーション教育に役立つかもしれないし、疲れ果てた休日に癒しを与えてくれることもあるかもしれない。それはたしかに、芸術が、既存の社会のなかで「役に立つ」側面だろう。

 ソーシャリー・エンゲイジド・アート然り、リレーショナル・アート的文脈を踏襲した芸術祭然り、芸術は、既存の社会のなかで、役に立つ。

 

 他方で、(2)「それは芸術にしかできないことかどうか」という点は、じつは、けっこう難しい。これは、めいめいの芸術家が、そもそも「芸術とはどのようなものであるべきか」という(ある種イデオロギー的な)問いに対して、切実に考え抜いたときにだけ、答えることの可能な問いだろう。

 この点について、わたしは、芸術の社会的な意義は、日常生活のなかで見過ごされてきた現象を、人々が眼に見える形で提示し直し、社会のなかに引き入れていくことにあると、(少なくとも今は)考えている。
 たとえば、セザンヌの絵にしたって、「客観的な世界」に安らっている人々が見逃していた、世界が構成されていく非反省的な瞬間(それまで意識に昇ってこなかった瞬間)を捉えたものであるし、あるいは、誰にも気づかれてこなかった差別を、見過ごされてきた問題として観客に対して提示するような作品もまた、芸術だと言えるようにわたしは思う。

 

 

 人々が見えているけれど気づいていない(あるいは、気が付いてはいけないことにされている)ような、これまで言葉にされてこなかった、名前のついていない社会問題を、社会のメンバーに知覚可能な形で提示することは、芸術の役割だろう。日常生活のなかで絶えず忘却され続けている言語化されてこなかった混沌を、秩序だった社会(言語化されている世界)に対して突きつけることは、おそらく芸術にしかできない。(あるいは、芸術的行為にしかできない)

 逆に言えば、芸術は、既存の社会のなかですでに問題化されている秩序だった文脈を踏襲するだけでは、少なくとも、それが芸術にしかできないことであるかどうかという問いに答えたことにはならない。すでに名前がついている社会問題は、名前がついている時点で、半分くらいは解決に向かっている。たとえば、「ヤングケアラー」という問題は、近年になってようやく、問題に対して名前が与えられた(与えられた名前が広がった)から、広く理解されるようになった。このように、問題に対して、名前を付けることは決定的に重要である。他方で、芸術は、こうした名指し以前の何かを取り扱う営みであるように、私は思う。

 この点は、エンタメと芸術の大きな違いであるように思う。エンタメは、既存の秩序だった文脈やドラマツルギーを踏襲するがゆえに、分かりやすくて面白い。娯楽という意味では、役に立つ。他方、芸術は、既存の文脈に対して混沌を投げ込んで亀裂を入れようとするがゆえに、分かりづらく、よく見なければつまらない。さらに、短期的な意味では(既存の社会から観察可能な有用性の次元では)、役に立たない。

 まとめると、芸術は、視界には入っているが誰も気づかなかった、名前のない問題を、社会のなかに引き入れていくことをしていく点に、「社会的意義」がありそうである。

 

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  そうした芸術を作ろうとするとき、芸術は、往々にして「よく分からない」ものになるはずである。これまで誰も語ってこなかった現象を取り扱っているのだから。むしろ、直ちに「分かる」ような芸術は、少なくとも先に述べたような芸術にしかできない「社会的意義」を十分に満たしてはいない。

 だとしたら、舞台芸術において、作品と社会とを接続させるドラマトゥルクの存在はやはり、重要なのではないかと思う。たとえばドイツだと、劇場付きのドラマトゥルクが、観客に向けたアフタートークやワークショップを企画し、観客の作品の理解を深め、また、作品が提示した問題に関しての対話を深めるきっかけを作り出しているらしい。作り手と観客との循環を生み出すプロセスにおいて、ドラマトゥルクが重要な位置を占めている。

 他方、日本において、作り手と観客の対話は、あまり積極的には生み出されてこなかったのではないかと思う。たとえば、アフタートークにせよ、有名な(?)ゲストが呼ばれて感想を喋るだけで、それほど積極的に、観客とのコミュニケーションは目指されていないように思われる(ときとして、客寄せパンダみたいになっていることすらある)。そうしたなかで、作品が提示している現象に対して、観客がどう思ったのか、そして、その内容の演出法は適切であったのか、というような議論は、少なくとも劇場のなかでは、あまりなされている感じがしない。あるいは、観客がそれについて議論できるほど、芸術家の側で、明瞭にテーマについて整理することができていない(現場が多い)という現状がある。

 

 そういう状況のなかで、やはり、私は、少なくとも小劇場演劇の業界においては、作品に対して他者の立場から意見が言えるドラマトゥルクが必要であるように思う。もちろん、作り手の側からすると、ドラマトゥルクにかき乱されない方が作りやすいし、その上、ドラマトゥルクが入ったことによる効果も分かりづらいから、ドラマトゥルクの必要性が理解されていないという現状はよく分かる。けれども、作品を、他者の観点を取り入れながら整理し、議論可能な形で社会に差し戻していく必要性もまた、作品の作り手は少なからず負っているように思うのである。
 たとえば、コロナ禍以後、若い演劇人でも、ある程度助成金を取ってから公演を打つというのがベースになってきたように思うのだが、そこには当然、税金が投入されている。そうだとしたら、先に挙げたような、芸術を手段としてしか達成されない社会的意義を果たすことは、作品制作者が負う責務であるように思う。

 また、(1)の「芸術にできること」だけを満たしても当然よいのだが、そうしたとき、芸術の領域自体、やがて経済的・政治的な文脈に回収されてしまうだろう。「金になる」だけなら芸術でなくともよいし、「コミュニケーション能力が身に付く」だけなら、教育でもよい。芸術それ自体の(芸術しか持たない)意義について考えていく必要がある。
 だとしたら、作品を社会に差し戻していくにあたって、他者の立場から、作品に対して意見できるドラマトゥルクは、やはり、いたほうがよいように思われるのである。

 

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 わざわざこんなことを書いているのは、やや「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」的な文脈にアート全体が惹きつけられていることに対して、わたしは少し懸念を覚えているからである。とくに、制作費の高騰もあって、劇場費節約の観点から、「グレーゾーン」(劇場的なブラックボックスと、美術館的なホワイトキューブの間に位置づくような、インスタレーション的なパフォーマンスが行なわれる場所,  アートギャラリーで行なわれる展示型ダンスなどが典型, Bishop 2018)での公演は、演劇業界で増えているし、今後も増え続けるだろうと思う。(とくに、小劇場文化を長年支えてきたこまばアゴラ劇場も今年中になくなるようで、あぶれた若手はグレーゾーン的な空間を志向せざるを得なくなるのではないかと思う)

 こうした「グレーゾーン」的な場所での公演のポテンシャルは、わたしも見定めかねているのだが、ビショップが指摘しているように、SNS的な拡散の文化との相性はかなり良いように思える。
 そうしたとき、どう、作り手が、インスタントな「社会的意義」と距離と取ったうえで、作品の芸術ならではの意義を提示できるかは、作り手に課せられた課題になるだろう。ビショップが指摘するように、グレーゾーンは、SNS上での拡散を競うような新自由主義的プラットフォームに成り下がる可能性も、デジタルな抵抗の拠り所を作っていく可能性も、どちらもあるだろう。

 こうした、舞台芸術が直面している課題を考えるにあたって、やはり、社会と観客の関係性を批判的に検討するドラマトゥルクの役割は大きくなっていく(べき)であるように思われるのである。

 

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