KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

詩人失格

 noteからはてなブログに移行して、エディタの問題もあるのか、書く文章が理屈っぽくなってきている。(それが自分でも少し嫌で、更新から手が遠のいていた)もうすこし、散文詩みたいに、余裕をもって考えていることを書くようにしたい。

 わたしは、ふだんの仕事がら、理屈っぽくなりがちだと(自分では)思っているのだけれど、もうすこし論理から自由に、言葉を記していけたらいいのになあと、しばしば思う。

 

 分析というのは、なんだか、それ自体では冷たくて暗いものだ。

 科学は、結局のところ、そういうものなのかもしれないけれど、もっと、生活の世界に、言葉を差し戻していきたい感じがする。科学が分析の言葉で世界を語ろうとするとき、たしかに、ときとして不動の現実として見えてきてしまうような、(人間たちの)世界が、言葉からできている(ものでしかない)ということを明確に示すことはできる。言葉からできている限り、世界を変えていくことへの希望を示すこともできるだろう。
 さらに、そこから半歩先に飛び出して、語られぬまま安らっている、世界の外側(言葉の外側)を示すことも、もしかしたら、できるかもしれない。

 ただ、その反対に、ひどいことが目下進行中のいまの社会で、分析的な言葉は、直接はなにもできないなあと思ったりも、する。文学や芸術における、詩の言葉のほうが、よっぽど、(人間たちの)世界のあり方を変えていったり、するだろう。(人の作った世界は言葉からできているのだから)

 

 身体や音楽の力と、言葉から構成されている世界の柔らかさを信じつつ、まことに小さな芸術を、わたしたちの生活に根ざしたレベルから作り続けていくしかないのかもしれない。
 分析の言葉で書かない練習をしていきたい。

 

-----

 

  歳をとるにつれて、わたしはどんどん、生意気になっていっているように思う。そのつもりはあんまりないのだけれど、あとから考えると、「ちょっと生意気なこと言っていたかなあ・・」と思ったりする。それは、あんまり身近なレベルで「だれが偉いか」とか気にしなくなってしまったからかもしれない。(とくに社会学を勉強し始めてからは顕著なので、「生意気」になりたい人には社会学はおすすめかもしれない)

 それは、よくないことが起こったとき、生活のために「無難」に黙っているよりは、よっぽど良いことかもしれないけれど、このまま、いつか取り返しのつかないところまで「生意気」になってしまって、やがて生活できなくなってしまうのではないかと、ちょっと心配だ。(演劇周りだと、わたしは、けっこう「面倒くさい人」とか思われているんじゃないかとか、ときどき理由なく心配になったりする、たぶん誰も気にかけてもいない気もするけども、)

 でも、そういう、各々にとって身近な「えらい人」から発されるような、差別や権力を、少しずつズラしていくことからしか、何も変わっていかないだろうな、とも思う。わたしたちは、(それが似合っているかはさておき)せっかく言葉を持っている生き物なわけで、言葉の世界における出来事に介入したいときに、手段として言葉を使うのは悪い手ではないだろう。そのとき、少しユーモアが入ってくれば、なおのこといい。

 ずっと昔、中学生のとき、(不登校の子があつまる)フリースクールに通っていたときに、いつも来ているメンバーの一人休んでいて、誰かがが「⚪︎⚪︎ちゃん不登校になったんかな」とボケると、「いやみんな不登校やろ笑」と誰かが笑ったのを、最近、なんとなく思い出す。そういう、大きなモノから「弱い」とされた側にべったりと貼られたラベルの意味を、ユーモラスに転換させてズラしていくこと、そこにこそ、希望があるような感じが私はする。(ルサンチマンに陥るのではなく、かといって今の軸の中で強者になるのでもなく。)

 

 結局、だんだんと一段落が長くなってしまって、理屈っぽくなってしまった、だめだなこりゃ、詩人失格である、

 

今年も暖かくなってきた、