KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

積み立ての詩学

会う人会う人、みんな積立NISAの話ばかりするものだから、(貧乏人のわたしとしては)不安に駆り立てられる。

そもそもNISAとは何なのかよく知らないし、なにを積み立てているのかもいまいちよく分かっていない。そうじゃないことは分かりつつ、「積立NISA」という言葉を聞くたびに、レゴブロックを積み上げている子どもの様子が、なんとなく頭に浮かぶ。わたしのなかだと、黄色とか緑とかの原色のブロックをはめ込んでいく遊びが、積立NISAだ。

具体的になにが積み上がっているのか、私はよく知らない。だけれど、たしかに、ブロックでも、モノでもコトでも、積み上げていくイメージというのは、人を安心させるものがある。ただ、同時に、人はそういう積み上がったモノを、メチャクチャにしてしまいたくなる始源的な欲求も持ち合わせているようにも思う。子どもがトランプタワーでもなんでも、倒すように、積み上げたものを壊すことは気持ちがいい。

かつての首相が言っていた「トリクルダウン」という言葉も、「積み上げ」のひとつだ。積み上げられたワイングラスの構造はそのままに、その中身のカクテルだけが、つぎつぎと溢れて下の方に広がっていく。中身のカクテルがつぎつぎと溢れ出していく様子を想像すると、なにか、ドミノを倒すときのような、生理的な爽快感がある。静的で秩序立っていた構造は、堰を切ったように颯爽と崩壊していく。

人間には、きっと、なにかを積み上げたくなる欲求と同時に、それを崩壊させたい根源的な欲求がある。いやむしろ、崩壊のために積み上げていることすらある。自分で積み上げたものを、自分でぶっ壊すことは、わりと気持ちがいい。

 

技術でも、知識でも、NISAでも、積み立てられるモノは、目の前で起こっている生活の基底的な層を覆い隠してしまうことがある。わたしたちは、自然科学を知ってしまった今では、子供のころのようにお化けと出会うことはできないし、時計の見方を知ってしまった今や、時間は伸び縮みしなくなった。(わたしはポモドーロテクニックとか使っちゃって、悲しいことに、客観的な時間の方に、生活の時間を管理させているくらいだ。)計画的な積み立ては、わたしたちの生活に上から被さって、最初にあった、身体と結びついた下層を覆い隠してしまう。
だとすると、積み上げの崩壊の爽快感は、そういう「積み立て」による覆い隠しを取っ払って、私たちが元々持っていた、生活の根源的な基盤を、瞬間的にであれ開け広げにするところからきているかもしれない。野球だって、一番気持ちがいいのはホームランが出て「走者一掃」したときで、それはボールによって支配されていた秩序だった構造が、ボールがグラウンドの外に飛び出ることによって、一瞬、崩壊するからなのだと思う。ソロホームランより満塁ホームランのほうが気持ちが良いのはそのためだ。走者が溜まったグラウンドがその鬱血に耐えかね、打球の飛翔とともに裸のグラウンドが明らかになるホームランには、エロティックなカタルシスがある。

 

そういうわけで、積み立てNISAの価値は、やがてそれが崩壊したときの爽快感にあるかもしれない。高騰よりも、暴落の方が歴史に名を残しているのは、それが人間に対して、一瞬の根源的な爽快感を与えているからだろう。

だから、やがて来るべき恐慌の日のために、NISAを積み立てようじゃないか。

 

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E-Sports(パワプロ)で諸葛孔明になりたい欲望

おそらく、このブログを読んでいる誰も、「パワプロ」をやったことがないだろう。ほとんどの人は、「パワプロ」が何を指しているのかも知らないと思う。
パワプロとは、「実況パワフルプロ野球」という野球ゲームのことである。二等身のお団子みたいなキャラクターが野球をしているゲームで、まあ、どこのゲーム売り場にも売っているくらいにはメジャーなゲームということになっている。

 

このゲーム、面白いのは、オンライン対戦で、いわゆる、E-Sportsである。

何年か前までは、プロリーグがきちんとあって、選手には給料が支払われていたらしい。そのときに作られたシステムなだけあって、かなり細かく洗練されている。昔の野球ゲームみたいに、強い球種を投げてれば抑えられるということはなくて、プレイヤー同士の駆け引きが重要である。とくに、野球ゲームなだけあって、細かい配球の駆け引きや、守備のシフトの駆け引きが重要になってくる。

たとえば、相手のバットの振り方や見逃し方で、相手の待っている球種を予測して、違う球を投げ続けたり、あるいは、あえて待っている球種をボールゾーンに投げて打ち取ったりする、という遊び方ができる。(ゲームに慣れてくると、打者がどういう球を待っているのか、あるいは、次に投手がどういう球を投げてくるのか、わりと分かる)

つまり、実際の野球でもありそうな駆け引きを、ゲームのなかで、部分的に楽しめるというわけである。

とくに、普通の野球だと、生まれつきの身体的な差が決定的に重要になってくる(たとえば、プロ野球選手は基本的に背が高い)から、まあ、わたしみたいな細身の人間は(基本的に)勝てないのだけれど、E-Sportsは、脱身体化されているから、生まれつきの要因に影響される要素が少ないから面白いなと思う。(まあ、動体視力とかは、生得的な要因も絡んでくるのかもしれないけれど・・)
とくに、野球は、本格的にやろうと思ったら、相手チームと合わせて18人集めないといけないので、インドア系な人間が気軽にできるスポーツではないのだけれど、野球ゲームなら、擬似的に駆け引きだけ楽しめるから面白いな、と思う。(ミスしても、自分にしか迷惑がかからないところも、良いところだ)

戦略を立てるという意味では、将棋や囲碁などのボードゲームも面白いのだろうけれど、私は、動体視力に根ざしたアクションの身体的な要素が少しだけ入っていて欲しくて、スポーツゲームをわりと遊んでしまう。
自己分析的にいうと、それはたぶん、脱身体化されきった、理性と理性の戦いで勝ったときより、身体的な要素も幾分か入った戦いのなかで、アクションの上手そうな相手を、駆け引きでやり込めたときの喜びが大きいからなのだろうと思う。(つまりまあ、諸葛孔明同士の理性の戦いで勝つのではなくて、身体的には明らかに優位な曹操に勝つ諸葛孔明に、自分がなりたいという欲望なのだと思う。)

基本的には脱身体化されたゲームという設定のなかで、身体的に優位な動体視力を持った相手に対して、脱身体的な理性で勝つことの悦びが、e-sportsにはある。

 

そういうわけで、最近、スポーツゲームにハマっている。
みんなも一緒にあそぼう。

 

 

 

レモンで野球した

 

 

センセイと呼ばれること

博士論文の審査に通ってから一年ほどが経った。「センセイ」と呼ばれることが増えて、海外での敬称も"Dr."ということになった。敬称が(Mr.やMs.などに代表される)ジェンダー規範から自由になったのは良いことだけれど、今のところは、全然しっくりきていない。

何を話すにしても、慎重に話さないと、「センセイ」という立場のもとで理解されかねないので気をつけないといけないと何度でも思う。今の日本では、大学院を卒業できるくらいの経済的余裕があった人しか、Ph.D.(博士号)を獲得することは基本的にできない。そういうPh.D.の称号やDr.、あるいは「センセイ」という敬称は、どうもインテリくさい。

個人的な体験談として、博士号を取って、そこそこ有名な私大で教鞭を取る(ことになっている)という話になってから、あらゆる物事で、明らかに話が通りやすくなった気がする。それは、博士課程での修行を経て、わたしの側での分かりやすく話す能力が上がったということもあるのだろうけれど、たぶんそれだけではない。称号そのものが、わたしの捉えられ方を、権力的な相のもとで、出会いに先立ってあらかじめフレーミングしている。

それが嫌で、初対面の人に「社会学者」を名乗ったりすることに対してわたしはとても慎重になっている。仕事を訊かれたときには、とりあえず「教員」と答えるようにしている。(それに、「社会学者」とかいうと、フーコーやらドゥルーズやらの話を仕掛けてきて、どれどれお手並み拝見しよう、みたいな人もいたりしてだいぶ面倒くさいというのもある。)勝手に羨望してくる人も、挑戦してくる人も、称号に出会いたいだけで、わたし自身と出会う気がないという意味で同様に面倒くさい。


博士号の称号が不可避に抱える権力性から逃げようとは思わないし、博士の称号に求められるべきことは責任を持って引き受けるつもりだけれど、称号から私のうちに差し込まれている光が、わたし自身から発されていると勘違いしないように、改めて気をつけたい。

 

https://minartsuzuki.hateblo.jp/entry/2023/07/20/154249

 

6月に観た作品の感想

6月は国際学会の準備に時間を使ったので、そんなに数は観られなかった。

ちなみに、5月に観た作品については、下のリンクから観られます。↓

minartsuzuki.hateblo.jp

 

以下、いま覚えているものだけ、つらつら書いていきたい。

 

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福田尚代さんの展示「ひとすくい」西船橋で観た。

幼き頃に慣れ親しんだモノ(消しゴムや漫画のコラージュ、本など)が、静謐に配置されていて、美しかった。
回文も良かった。回文には、人間が書いているというより、なにか、天から降ってきた言葉のように感じさせる力がある。すぐれた詩や戯曲もそうだけれど、美しい言葉は、頭から生まれるのではなくて、私を超えた何物かから現れ出るよなあと思う。

 

 

演劇では、身体の景色カタリ vol.4を観た。
観た作品は3つだけで、全てを観ることはできなかったのだけれど、観劇した作品のなかだと、大西玲子さんの「貨幣」が素晴らしかった。 
(これは山下澄人さんのラボで知ったことだけれど)三波春夫の「お客様は神様です」という言葉は、文字通りの意味らしい。つまり、観客を比喩で神様に喩えているのではなくて、そもそも人間が相手ではなく、神が相手である、ということである。

今の時代で、その演目を上演することの意味が大切なのだと思う。目の前の観客に一喜一憂するのでなく、自分が切に思うていることを捧げ出すのでなければ。
そういう意味で、観られて良かったと思える作品だった。

 

 

札幌にも行って、山下澄人さんのラボにも参加した。
ラボというのは、説明しづらいのだけれど、行ってない人にも分かる言葉で言うと、演劇のワークショップにわりと近いのだと思う。ただ、ワークショップと違って、なにか教わるというより、どちらかというと、なにかを作ったりするときの構えのようなものが分かったりする催しだ(と思っている)。わたしにとっては、とても、おもしろい。

コロナ前に東京で参加したきりだったので、4年ぶりくらいの参加だった。

4年前は、まだパフォーマーとして演劇に出ることもあったから、ある意味で「舞台慣れ」していたのだけれど、この4年間全くそういうことをしてこなかったからなのか、私の身体は、なんだか、いつになく緊張していた。

人前で緊張するたびに、(神がいるとして)神に対して緊張するなら分かるけれど、人に対して緊張してどうするんだ、ということを自分で自分に対して思う。おんなじ人でしかないのだし、その緊張が、最後には余計なカリスマを心のうちに生み出してしまう。
人を無意識に評価してしまったり、あるいはされることを無意識に恐れたりして、身体を強張らせて、殻のようになった身体のなかへと逃げ込んでしまう、その感じ、なんとかしたい。
(目の前の)人だけのためでなく、(神がいるとしたら)神のために作り続けなければ、と思う。

 

 

宮森みどりさんの個展『PROJECT ; ONE FAMILY STORY』にも行った。

作り手である宮森さん自身の、家族に関しての映像作品が中心。演技をしていることそのものを、観客に対して隠蔽せずに、むしろ、その人のその人性(実存)が現れる道具立てとして用いている点が面白かった。
一般的に、多くの演劇は、演技の演技性を隠蔽してしまう(演技であることが忘れられるような「リアルな」演技が目指される)けれど、わたしは演技の演技性が表れた瞬間に現れる実存の煌めきに興味がある。

トークショーに、題材として協力してくれたご家族を呼べるのは、題材と誠実に向き合った証拠だよなあと思う。演劇やアートは、ときとして実際に存在する人間を扱うことがあるけれど、本人や、その属性を抱えている人を呼べないんだったら、原則的にやらないほうがいいと私は思う(例外として、加害/被害の図式で取り扱われる問題における加害者本人を呼ぶべきかどうかは、議論の余地があるけれど)。

その作品を、誰に向けて提示して、どう現実と接触していくのかという問題は、ほんとうはマーケティングや広報以前の問題のはずだ。公の場に出すということ自体、現実と接点を持つことに他ならないのだから、芸術や虚構だからなんでもやって良いということにはならない。宮森さんの展示は、そういう(面倒くさいけれど最も基本的な)ことを、とても丁寧に作っていったのだろうということがよく分かるものだったので、好感を持って観た。

わたしの家族(というか両親)はずっと仲が悪くて、それが小さい頃からすごく嫌だったなあと思う。父と母は、たぶん15年くらい口を利いていないし、わたしと母も5年くらい話していない。実家も、とくに挨拶もなく、突然飛び出すようにして今の暮らしを始めている次第である・・。
いずれ、親の老いと向き合わないといけない日が来るのだろうと思いつつ、見て見ぬふりをしている現在である。

 

 

イベント「劇のやめ方・夏至」も観た。

友だちの松橋和也さんの映像作品『平林2294−4』と、矢野かおるメンバーで友だちの小栗舞花さんが参加している即興『浜』を観た。

『平林2294−4』は、「土葬の会」を追いかけた三十分ほどのドキュメンタリー映像作品。仏教的な輪廻思想から考えたら土葬が自然な発想になりそうだけれど、日本で火葬がメジャーなのはどうしてなんだろう、と考えるなどした。
なるべく、いまの日本人は、死(と腐敗)を、そのかつて人間だったものから遠ざけておきたいのかもしれないな、と思う。

わたしは死んだら、どちらかといえば土葬してもらいたい気がする。微生物たちが分解してくれたら、それをミミズが食べ、昆虫が食べ、鳥が食べ、動物が食べ、やがて世界中に散らばっていくだろうから。
生きている時には食べるだけ食べておいて、いざ死んだら食べられたくないというのは、すごくエゴイスティックなことのように感じる。(とはいえ、土地がないから火葬しているのかもしれないし、生きている人の好きなようにしてくれとも思う)


即興パフォーマンス『浜』は、日常の道具やライト、楽器などを使った、即興演奏に近いパフォーマンス作品(演奏がメインだけど喋ったりもする)。素晴らしかった。最近家でギターぽろぽろ弾いているのだけれど、ギターの弾き方が、少しわかった気がした。

わたしが即興が好きだというのもあるのだろうけれど、音楽の原初的な喜びを感じた。zzzpeakerさんのファンになりそうだ、いや、もうなっているかもしれない。

こういう一度きりの、現れては消えていく意味に還元されない瞬間、楽しいなあと思う。わたしも参加したくなった。

 

 

6月は学会で韓国に行った。つぎは芸術を観に行きたい

 

 

 

 

 

 

 

 

参加型アートの中断不可能性(おぼえがき)

 

前々回の記事に引き続き、「参加型アート」(特に、始まりと終わりの時間が決められているパフォーミングアーツ)における、観客の中断不可能性について考えてみたい。


 「パフォーミングアーツ」界隈で、観客参加型の上演は、とにかく流行っている。なべて、観客/パフォーマー脱構築(雑にいえば、観客とパフォーマーの二項対立を、演出的な工夫によって超えていきましょうみたいなこと)をコンセプトとして掲げている作品が多いように思う。

 こういう上演型の作品に対して、政治哲学的な文脈で(とくにアウラ型芸術への巻き込みを警戒するファシズム批判の文脈で)、集団を特定のパフォーマーという「カリスマ」がファシリテートして導いていくことの危険性を指摘する(わりとよくある)批判も可能なのだろうけれど、もう少し、ミクロなレベルから考えてみたいと思う。

 ちょっと考えてみたいのは、作品にもよるのだろうけれど、パフォーマー側は上演を終了させる権利を持っているのに対して、観客側は上演を終了させることができないというのが、決定的にパフォーマー/観客の脱構築を難しくしているということである。

 観客は、いかなる振る舞いをとっても、構造的にパフォーマンスに組み込まれてしまう。たとえば、マリーナアブラモビッチの作品に介入した観客も、エリカフィッシャーリヒテ的な意味でいえば、パフォーマンスの循環に取り込まれてしまっている。つまり、上演を止めようとする行為自体が、参加型アートにおいては、パフォーマンスの一部を構成してしまう。

 他方で、パフォーマンスの場を設定したパフォーマーの側は、上演を終了させることができるという点で、パフォーマンスの外側の行為を自発的に行なうことができる。(つまり、パフォーマンスの領域/日常生活の領域という区別において、観客は前者の領域にとどまらざるを得ない一方で、パフォーマーは、上演を終了することによって、後者の領域における行為を開始することができる。)ゴフマンの『フレーム分析』の言葉を借用するなら、フレームを上演のフレームから日常生活のフレーム(あるいは他のフレーム)へと転換させる権利は、パフォーマーだけが持つ。参加型アートにおいては、(演出法次第で)観客は、上演のフレームのなかでしか行為することができない。

 (このブログは備忘録も兼ねているので小難しく言っているけれど、簡単に言えば、パフォーマーだけが上演を終了させることができるということです)


 だとしたら、少なくとも、「参加型アート」であるということそれ自体は、(今の「参加型アート」の流行りのなかで暗黙理に前提されているような形で)民主主義的であることには決してならないよなあ、とか、思ってしまう。パフォーマー/観客のあいだに、「やーめた」って言えることができるかどうかという権利について、決定的な非対称性があるのだから。

 ジョンケージは「4分33秒」で観客のざわめきや外から漏れ聞こえてくる音を音楽の一部として提出した、というようなことをしたとされているけれども、それでも、上演の開始と終了は厳格に決められている。(4分33秒経ったら上演をやめるということ自体が、観客が居合わせる前にすでに決まっている!)

 

 (色々書いたものの)わたしは参加型の作品、結構好きなのだ。結構観に行ったりしている。ただ、こちら側がしていいことが、私が居合わせる前にあらかじめ決定されている感じがして、どうして急に歌を歌ったりしてはいけないのだろうと思ったりする。パフォーマーは急に歌うのに。(わたしの)うたが上手くないからだろうか。だとしたら、パフォーマー/観客の二項対立が、上手い人/下手な人にスライドされただけなのではないかとも思う。

 なかなか、「参加型アート」は難しい。つぎの作品のための備忘録としてここに記す・・。

 

 

空港の飛行機、なんか動いてる大きいものって落ち着く

 

 

5月に観た作品から連想したこと

5月はあちこち遠征していた。いろいろ、観ることができた。
観て、連想的に思ったことなど、つらつら書いていきたい。

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ふじのくに世界演劇祭2024では、いろいろ観た。
きちんと最初から最後まで観たのは、4本。

  • SPAC『白虎伝』
  • Co.SCOoPP.『まちなかサバイバル!』
  • のあんじー『待たない!』
  • BONG n JOULE『The Road of Heaven』
観た四作品のなかだと、のあんじーの『待たない!」で、あんじーさんが自転車に乗ってどこまでも去っていくラストが印象的だった。わたしたちの(ブラックボックスの外の)生活において、見えなくなっていくまで見つめるという体験それ自体が、ある種ドラマチックなものであるはずだけれど,ブラックボックスの劇場ではそれができない。その奥行きが体現されていたラストは美しかった。野外ならではである。
SPAC『白虎伝』のラストも、屋外に置かれていた舞台美術が開かれて、闇夜の奥行きが現れるという印象的なシーンだった。

野外の作品の面白さは、始まりと終わりが、なんだかよく分からないところにも、ありそうだ。ブラックボックスで行なわれる作品、どれもこれも始まりと終わりが大抵決まっているけれど、野外だと、空間的な区切りがよく分からなくなって、時間的な区切りも曖昧になっていくところが面白い。(それは、明示的な登退場がないからだろう)
あるいは、観ている人たちも、観に来たわけでもないけど居合わせてしまった人に観られているという構造もまた、面白いなと思った。少しデモみたいだと思う。

「デモ」にかこつけて、書き連ねておく。1960年の安保闘争の映像を、こないだ見つけて、こういう映像って学生時代は(自分から取りに行かない限り)回ってこないよなあと思った。いまのデモで人が集まっている映像もそうだ。
そりゃ、若者の行動の選択肢に、「デモに行く」がないはずである。映像でも見たことないんだから。

なんだか、たくさん人が集まっているということそのこと自体、主義や主張と無関係に隠蔽される傾向は(権力一般の効果として)あるように思うので、屋外でのアートプロジェクトは民主主義の(人が集まることの)練習にはなりそうだ。
 


映画では、
を観た。(メモしていないので、いくつか忘れているかもしれない)
 
濱口竜介監督の作品は、女性の描き方が特徴的(つまり、理知的な領域を超えた部分を持つミステリアスな他者として描かれがちだったように思う)で、そこがいつも引っかかりを覚える点だったのだけれど、『悪は存在しない』は、その領域が、「女性」から「自然」へと移行したように見えて、わたしは引き込まれた。わたしは、「音楽劇」だと感じた。
 
 

www.youtube.com

『関心領域』は、アウシュビッツ収容所の偉い人だったらしい、ヘスとかいう人と、その家族の日常を描いた作品。壁の向こう側の収容所に、目を向けないで生活を成り立たせている人たちの話だと感じた。
収容所のなかは、リアルタイムでは描かれないのだけれど、だからこそ生々しくて恐ろしいものに感じた。ラストシーンの圧が強くて、観ているのが苦しかった。
 
アウシュビッツ収容所の近くに住んでいる人を描いた作品だと、『縞模様のパジャマの少年』もある。高校生のときに、演劇部でナチス政権下のポーランド人の役を演じることになって、そのときに、この作品を観て衝撃を受けたことを思い出す。
 
こういう映画を見るたび、わたしは「空気」に支配されてしまう人間って、恐ろしいなと思う。昔、「KY(ケーワイ;空気読めない)」という言葉が流行ったけれど、空気なんて、そんなに読めないほうがいい。1930年代から40年代の日本人がみんな空気読めなければ、あんな酷いことになっていなかったような気がする。
「世渡り上手」みたいな人が評価されがちな世の中に、少しずつなっていっているように思うのだけれど、世渡りとか上手くない人のほうが、みんな自分の言葉で話してくれるので、話していてずっと面白い。みんな空気読むのやめてほしい。
 
 
 
5月は、京都にも行って、自分たちの作曲した『訥』という作品の演奏を聴きに行ったのだった。Notation:Mutation | 変異するノーテーションというコンサートの一曲として。
  • Max Wanderman (USA) Erosion Study for ensemble
  • Francesc Llompart(Spain) No Time Too Loose
  • Milan Guštar (Czech)/ Attraction for Four
  • Daria Baiocchi (Italy) / Open
  • 矢野かおる(日本) / 「Unclear Voice for four voices
    *矢野かおるは小栗舞花・熊谷ひろたか・鈴木南音のアート・コレクティブ
  • John Franek(USA/Czhech) / Sorry!Sorry!Sorry!Sorry!
  • M.A. Tiesenga(USA) / shape(dream)
  • 塩見允枝子「春の夜の天宮」(2024)
    3手のピアノ、バリトン、ギター、マンドリン、打楽器のために
  • 寺内大輔「ルールズ」(2024)
    2~7 名のパフォーマーと 1 名の指揮者のために

はじめて実験音楽のコンサートを聴いた。
わたしは演劇畑なので、楽器の音よりも、人の声に慣れているからか、人の声が、作品に取り入れられている作品が面白かった。歌でもなく、台詞でもなく、 人がぼそぼそ喋っているけれど、意味はよく聞き取れないくらいの。

いわゆる「近代西洋」の音楽が(教養がないので)、私はあんまり得意ではなくて、いつも圧倒されて「すげー」と言うくらいしか楽しみ方をしらなかったのだけれど、実験音楽は、そういうハイカルチャーを求められている感じがそこまでしないので入りやすい。

これらには、初めて聴いたながら、しっかり刺激を受けて、それで、家に帰ってから、ジョンケージの勉強を始めたのだった。

ジョンケージといえば、昔、観客の音や動き、書いたもの、外の光など、偶然性を取り入れた作品を、劇団の旗揚げ公演として最初に作ったりしたことがあった。今思い返すと、あれはジョン・ケージ的で面白かったな、と思う。演劇業界で評価される作品ではなかったけれど、自分たちが信じられる作品だった。

 

 

美術展にもいくつか行ったのだった。

どれも面白かった。
(このうちの、どれかの展示を見て思ったというわけではないけれど、)現代美術は、いわゆる「政治」と、どう距離を取るのかが難しいな、と思う。近すぎると、これは芸術と呼ばずにアクティビズムと呼んだほうがいいのでは、と思ったりするし、他方で、距離がありすぎる(個人的すぎる)と、これをいまの社会に持ってくる意味とは、とも思ってしまう。(いや、アクティビズムでもいいのかもしれないけれど、アップデートされた「空気」を読みましょう、みたいなアクティビズムは、少なくとも芸術で改めてやる必要はあんまりないよな、とわたしは思う)

これは6月に観た作品だけれど、大西玲子さんが
『身体の景色カタリvol.4』で上演していた「貨幣」(原作・太宰治)がとても良かった。おもに戦時中を彷徨った紙幣が主人公の一人芝居。演劇でないとできないことをしていると思ったし、いまの時代に、この作品を一人芝居として演る意味も、私はとても感じた。
演劇には(あるいは、芸術には)、ときに現実以上の、魔術的な力がある(だからこそ、ときとして危険な術でもある)。久々に、観られて良かったと思った演劇だった。
 
 
みんなが、ひとりひとり、自分のことも、隣人のことも、見知らぬ他者のことも、材としてみなしたりせず愛して、生きる意味をひとまかせにせず、自分たちのことを自分たちで決めることができたら、ひとまず近代的な意味での戦争は起こらないような気がする。
まあ、夢想的過ぎるかもしれないけれど。

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観た作品は記録として残るけれど、そのときに考えていたことは、どんどんと過ぎ去ってしまう。考えていたことの備忘録として、6月も書き記していきたい。
 
 

静岡。白くてもじゃもじゃしたの、追いかけてた。(貞方くん撮影)
 

断想、差別やパフォーマンスについて

小さなライブハウスのイベントに行ったら、(客席にいる)特定の人をターゲットにした、舞台上のパフォーマーからの差別に遭遇した。ターゲットにされている人は帰ったし、わたしも入って10分経たずに帰った。

こういうこと、すごくときどきある。声をあげられるときもあれば、あげられないときもあって、そういうときは、声をあげて止めに入るべきだったと、いつも思う。

いくら芸術やら社会学やら、読書会やら勉強会やら研究会やらやっていても、目の前で起こっている差別に立ち向かっていけないのだとしたら、何の意味もないよな、と、いつも自分に対して思ってしまう。無力感。


いわゆる「アクティブバイスタンダー」になろう、みたいな話でもあるのだけれど、それは本当に難しい。

ああいうとき、大きな声で歌える歌(でも踊りでもなんでも)を、わたしは一曲持っておくべきなんだろうな、と思う。直接舞台に上がって注意するのが、一番よいことだとは思うし、(社会学者をまがいなりにも名乗っている限り)本当はそうするべきなのだけれども、もし、直接的に正しいことができなかったときには、全く関係のない歌やら踊りやらを、即興でするのも選択肢の一つなのだろうと思う。

(今調べたら、そういうときは、わざと飲み物をこぼして話題を終わらせるというやり方もあるらしい)

いくら「差別はいけない」と口で言っていても、いざというときに行動できなければ、ほんとうに何の意味もないな。

 

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たぶん、「それって差別ですよ」と言うことの本当の難しさは、ほかの人が「差別」だと思っているかどうか定かではない状況で、状況の定義をし直すことにある。つまり、自分が見ている(差別が起こっているという)世界が、ほかの人にとって自明であるかどうか分からないなかで、目の前の世界を定義づけし直す、という難しさである。

やる側は、それを差別を差別だと思っていない場合がほとんどなので、そうしたなかで、ある別の行為(ex. 「からかい」)として理解されている振る舞いを、「差別」としてラベリングしなおすことは、とても勇気がいることだ。

たとえば、バスの後ろの座席にしか黒人専用が座れないという決まりがあった、かつてのアメリカで、その決まりを破って、あえてトラブルを起こしながら、現状の世界を差別的なものだと定義し直していくことは、勇気がいるし、大変なことだっただろう。なんせ、誰もそれを「差別」だと思っていないのだ。単なる「迷惑なやつ」として、既存の世界からは理解されかねない。

でも、あえて、今のこの世界で芸術をやるっていうのは、そういうことのような気が私はする。既存の世界にあえて亀裂をもたらして、知覚のあり方を組み替えるのでなければ、それが芸術である必要は、あんまりなさそうである。

 

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舞台に乗っているということ、パフォーマンスが始まっているということ、それ自体が、客席に対しての相対的な強さであるのだと思う。

一度パフォーマンスが始まってしまえば、客席の側にいる人間は、パフォーマンスを止めてはいけないという規範がある。そういう規範を、私たちは(おそらく教壇という舞台上で先生のパフォーマンスが反復される学校教育の過程で)身体化されてしまっている。

パフォーマンスが開始されている以上、観客を縛り付けてしまっている点で、パフォーマーと観客の平等な関係性というのは、むずかしい。

この不平等さは、プロセニアムの舞台だけでない。あるパフォーマンスの始まりと終わりを決めることができるのが、パフォーマーだけであるということ、このことがすでに特権なのだ。始まりも終わりも、観客の側に委ねるのでなければ、ほんとうに居心地のよい場所を作ることはできないだろう。

 

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「勇気」ということについて、最近よく考える。

与えられた決まりごとや、制度や場所、権威を後ろ盾にしている限り、どんなに正しい振る舞いでも、わたしたちはそれを「勇気」とは呼ばない気がする。身体性に根ざした、認識や思考が及ぶまでもない瞬間の行動だけが、「勇気」の名に値するような気がするのだけれど、そういう価値は、今の世で、もはや忘れ去られてしまっている気もする。(かなしいことだ)

誰かが正しいと言ったからやるのではなくて、とっさの瞬間に、先に身体が動いているのでなければ。こんなところで反省会しても仕方がない。

 

家にかえってギターを弾いていた、勇なき優ではどうしようもない、