KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

ここでないどこかへ(パリとポーランドの旅行記)

 大学生くらいのときに書いた、自分の戯曲を読み返していると、「じぶんさがし」をしている人がたくさん出てくる。

 たとえば、国際貢献のために海外に行きたい人が出てきたり、インドに自分探しに行きたい人が出てきたりする。たぶん、大学生のわたし自身の不安の現れだ。世界のどこかに、いつか見つけられることを待っている「本当の自分」なんて居ないことぐらい、大学生なら、みんな知っているはずだけれど、それでも、どこかに「本当の自分」を探そうとしちゃったりする。そういう人たちが、なんだか、たくさん出てくる。

どこか遠くに(いいかげんに)行きたい人がたくさん出てくる

 

 「実存は、本質に先立つ」とか、サルトルは言う。名言めいていて、格好いい。

 私も、いつか、こういうことを、聴衆に向けて言ってみたい。

 「野菜は、ご飯に先立つ」。なにか格好いい気がする。野菜を先に食べておくと、血糖値が急激に上がらない、という意味である。

「実存は本質に先立つ」という言葉は、人間は、あらかじめどういう存在なのか、その本質を持って生まれてくる道具とは違って、どういうふうな存在であるかを自分自身で絶えず決めなければならない、というようなことを言おうとしている。自分探しの文脈で言えば、見つけられるのをどこかで待っている自分なんて居ないのだから、探すのをやめて、自分づくりをしようという話になる、かもしれない。

 たしかに、サルトルの言っていることは私も(だいたいは)同意するし、宗教右派もマルクス主義的左派にも(簡単には)与しないサルトルの生き方は、今の世の中においても、なかなか憧れるところがある。自分が何者であるか、誰かに決めてもらうというのは基本的に私も間違いだと思っているし、自分が何者であるのかを与えられたリストのなかから発見するという作業も、わたしは、あんまり幸せな生き方のようには思わない。自分(たち)が何者であるのかは、どこかに隠されている自分(たち)を発見するのではなくて、自分(たち)で作っていくしかない。

 だけれど、そうは言っても、「実存は本質に先立つ」とか言われても、という気持ちにはなりそうだ。

 自分が「何者」であるのか分からなくなっている若かりし頃の私が、そんなこと言われても、余計に混乱しそうな気がする。

 わたし「サルトル先生、自分が何者か分からなくて困っているんです」
 サルトル先生「実存は本質に先立つ!」
 わたし「ありがとうございます!がんばります!」

 うーむ、なんにも解決しなさそうである。
 2、3日後には、またやる気をなくして、大学をサボって実家のベッドでスマホを弄りながら、何者でもない自分への罪悪感を募らせているだろう。

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セーヌ川左岸から、ノートルダムの朝焼け


 そういうわけで、2月は、パリに行ったのだった。

 べつにサルトルがとりわけ好きというわけではないし、いや、むしろ、あんまり読んでいない方だと自分では思っているけれど、せっかくパリに行くのだし、ということで、サルトルの『実存主義とは何か』を日本から持っていって、飛行機のなかで読み返して、サルトルの通っていたカフェ・ド・フロールという喫茶店にも行ったのだった。

 サルトルの『存在と無』は、カフェ・ド・フロールで書かれたらしいし、たぶん、『実存主義とは何か』の原稿も、ここである程度は書いていたのだろう。MacBookを広げて仕事をしている地元の人もいて、こういう場所で仕事できるのは羨ましいなあと思う。
(ただ、観光地化されていて、値段もそれなりにするので、いま、学生や学者が、勉強や執筆のために使うのは、ちょっと難しいだろう)

 

「働けば自由になる」と書いてある

 わたしにとって、旅のメインの目的地は、パリではなく、ポーランドだった。

 たぶん、わたしが生きている間ぐらいには、それなりに大きな戦争がまた起こって、少なくとも今の形では、戦争遺構は見られなくなるのだろうという直感が、この数年、強くある。(そういうわけで、去年は、沖縄にも2回行って、戦争遺構を回ったのだった)そういうわけで、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所に行ったのだった。

 建物のなかは、ほとんど博物館になっていて、ガイドツアーで時間がなかったこともあり、事前に予習していた場所を確認するみたいな周り方になってしまった。なにか、教科書で学んだ出来事を確認するような形にもなってしまった気がする。

 建物の周り(ビルケナウ収容所)のあたりには、いまは煙突と、線路だけが残っていて、途方も無い広さの野原が、のどかに広がっていた。これも、せかせか歩いて、ドイツ軍が逃げる時に爆破したガス室の跡地などを見て回るなどした。たぶん、(仕方がないのだろうけれど)ツアーは、いつも忙しないのだろうと思う。観光客の時間は限られている。街からも少し距離があるし、全部をゆっくり見ていたら、日が暮れてしまうから、寄り道はあまり許されない。仕方のないことではある。

 それでも、もし、わたしがアウシュビッツにふたたび行く機会があるならば、今度は、寒い季節に行って、一人で、1時間くらい野原の中に座っていたい。どうして、毎日、私たちは、こんなに忙しないのだろう。

 

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 大学の春学期が終わった。

 なんだか、今の学生は、インターンやらで早く就活が始まってしまっていて、かわいそうだなと思う。やることが多すぎて、キャパオーバーになったときに、AIに丸投げしちゃう気持ちも分からんでもない。ゆっくり本を読んだりする時間は、時間的な資本の有限さという意味でも、文化的な資本の有限さという意味でも、もはや贅沢品なのかもしれない。
 

 

ポーランド・クラクフの広場の馬車、駆け抜けている


  

 この1年くらい、リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』の読書会を、オンラインでやっています。どういうふうに社会と向き合っていけばよいのか、理性だけを頼りにするのではなく、芸術などの知恵も借りながら考えてみたいと思います。

 次回は、8月13日 (木) · 20:30~22:30、6章を読む予定です。
 ご関心ある方は、ご連絡ください。

 

 

 

 

 

 

「演技をやめられないこと」にかんする覚え書き

 こう、現代思想のジャーゴンを使って演技を語ろうとするときに、「どう演技をやめるか」というトピックは、その議論の参加者たちを、なにか大事なことを話しているような気持ちにさせがちなトピックだ。

 なにか、オースティンやデリダ、ときにはバトラーを引用しながら、「パフォーマンス」と「パフォーマティヴィティ」を強引にくっつけて、議論めいたことをしていると、知的な共同体の仲間に入れてもらったような気持ちに錯覚させられる。

 そういう議論の筋書きは大抵きまっている。まず、「役割」(や「演技」)に対してわたしたちは従って生きていることを、「自由さ」が失われることと結びつける。たとえば、私たちがカフェでアルバイトをしているとき、「店員」という役を演じさせられていて、そうした演技を通して、個人の自由や尊厳が失われてしまう、というように。ときに、シェイクスピアの「この世はみな舞台」の台詞を引用しながら、「どう演技をやめるか」ということについて語るのは、たのしい。あたかも、社会という「舞台」の外側に「本当の自分」があって、舞台から降りたさきには、発見されるべき「本当の自分」が待っているかのように思えてくる。
 なんだかそれは、インドに行って、自分を発見しに行こうとする旅と、似ている。日常の演技をやめた先で、私たちは、本来の自分と出会うことができる、とか、なんとか。

 そのうえで、どのように「演技」をやめるか(つまり、社会という「舞台」を降りるか)ということが議論になったりする。まあ、大抵は、仕事のなかで、自分自身の時間をどう確保するか、オンオフの切り替えをどうするか、というような(切実な)話に落ち着く。 (どうでもよいけれど、オンオフの例でいうと、わたしは仕事したあとに、頭を切り替えるのにすごく時間がかかる。たぶん、人によってはお酒を、切り替えのための道具として使う人もいるのだろうけれど、私はお酒が翌日まで残るタイプなので、なかなかたいへんだ)

 

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 しかしながら、社会の外はない。あるいは、比喩的な意味で「演技」という言葉の使い方をしたときに、すべての人の振る舞いに対して「演技」という言葉を使って記述することが(比喩の意味からして)可能なので、「演技をやめる」ことはできない。
 「演技をいかにやめるか」ということだけを哲学的に考えた結果、あれやこれやの(芸術的な)実践を始めて、芸術のなかから答えを見つけ出そうとすることは、1メートルじゃないメートル原器を探しに、あるいは、斜めに動く「飛車」の駒を探しに、世界を旅にすることに似ている。そもそも概念的な「ありえなさ」にかかわる問題を、経験的な(発見可能な)事実によって、どうにかすることはできない。

 関連して、「役割」から自由なナマの身体というものも、ない。演じるのをやめた身体を「ナマの身体」と呼んだとき、それが「ナマの身体」という役割でないと、どうして言えるのか。役割から自由な社会の外側は、ない。一つの「劇」を辞めたとしても、劇の外には、いわば、「劇外劇」が永遠に広がっているだけである。ある特定の(限定的な)「社会集団(や構造)」の外を、すべての「社会」の外と錯覚して、外側を純粋な生き方だと錯覚してしまうことは、超人的で魅力的ではあるかもしれないけれど、それで具体的に誰かが救われることは、たぶんあんまりない。それは違う劇を始めているだけだからだ。

 ほかにも、関連することで、「語り得ぬ事実」というものはあるけれど、それも、社会の外側にあるから「語り得ぬ」というわけではない。社会の(特定の言葉で演じられる劇の)なかにあるからこそ、ある特定の事実だけが「語り得ぬ」ものとして現れてくるだけで、「語り得ない」からといって、劇の外側にあるわけではない。言葉による劇は、「語り得る」ことの条件であるだけではなくて、「語り得ない」ための条件でもある。
 ルールがあるからこそ、ルール違反ができるように、言葉の枠組みがあるからこそ、私たちは、言葉の外について語ることができる。

 ここまでくると、「演技をする/やめる」という、手垢のついた用語系自体、あんまり役に立たないのだという気持ちに、ますますなってくる。余計な比喩を持ち出すことによって、かえってわかりづらくなっている。だったら、その用語系自体、破棄してしまって、べつの用語系を作り出しながら、あたらしい経験のあり方を、あたらしい言葉で記述していくしかない。(それはそれで、創造的だし、人間的ですらあるとわたしはおもう)

 

 

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 なにか、こういう、「劇をやめる」みたいなことについて、二十代の後半のあたりで結構考えていたのだけれど、まあまあ時間の無駄だったかもな、と最近思ってしまう。暇だと、こういう、余計で、役に立たないことばかりに頭が回る。

 いやいや、とはいえ、その時期は、まあ、全体主義、としか言いようのない集団に出会した時期でもあって、与えられた役割に忠実であることが、きわめて非人間的な行為を可能にさせることもあると感じていたので、それはそれで、仕方がないのかもしれないんだけども。

 ただ、まあ、そうはいっても、わたしの個人誌の話だけではなくて、たとえば、ナチスドイツ自体の、自身に与えられた「役」に忠実であるだけの人間がしたことを思い起こすと、まあ、社会の外の「実存」について語りたくなる気持ちにもなったりする。
 でも、そうした不正義は、あんまり「演技」の比喩とか使わずに、より正確な言い方で問題にしていったほうが、効果的なのだろうと、今のわたしは思うかな。

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 それでも、社会変革みたいなことを考えたくなってみたとき、あえて、「演技」の比喩にこだわるならば、劇(社会)からの「ない出口」を探し出そうとするのではなくて、あくまで、プレイヤーとしての小さなやりとりの蓄積を通して、まともな劇へと物語をスライドさせていくことしかないのだと思う。
 当たり前のことだけれど、私たちのやりとりを通して作っているのが社会と呼ばれているものであって、私たちのやりとりに先んじて社会があるわけではないので、やりとりの蓄積によってスライドさせることは原理的に可能なのだと思う。(それが「いい方向」へのスライドなのかはさておき。)
 こういう、私たちの実践が先にあって、あとから台本だの劇だの社会構造だのが見出されるというような、当たり前のことを忘れたとき、あらかじめ用意された台本(「社会構造」)に従って、人間は劇を演じている、という(誤った)世界観が生まれてきてしまう。そういう世界観に立つと、ときとして、賢い人たちが新しい台本の書き手になって、台本の読めない人たちのために新しい劇を作ってあげようという発想に、容易につながる。頭のいい人たちが作った台本に従って、各自が与えられた役割をこなしていけば、あたかもハッピーエンドを迎えられるかのように。
 (あるいは、バッドエンドの今のシナリオを、「劇的」に批判しておけば、なにか良いことをしている気持ちになってしまったりする)

 だけれど、そんなの、歴史を見てもうまくいかなかったし、かりにうまくいったとしても、余計なお世話なのだ、まったく。人の書いた台本を、なんの意外性も伴わずに演じるだけなんて、面白くもなんともないじゃありませんか。ちょっとぐらいアドリブを効かせながら、今日も「社会人」だのの役を演じたって、よろしいでしょう、自分の幸せくらいは、せめて自分で決めさせてください、ってわけです、

 無理やり「演技」の比喩を使うとろくなことがありません

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~📕おすすめ:1分でわかるAI要約📕~

この記事は、「演技」「役割」「社会」「舞台」「本当の自分」が、カフェのレジ横でオースティンとデリダとバトラーを待っている短編小説です。🎭☕📚

人間は社会の中で店員を演じたり、自由を失ったり、シェイクスピアを引用したり、インドに行ったつもりでオンオフを切り替えたりします。
しかし、お酒は翌日まで残るので、社会の外には出られません。🍺🚪❌

著者によれば、演技をやめようとすると、そこにはまた演技があり、劇の外には劇外劇があり、ナマの身体の外にはナマではない身体があり、メートル原器は1メートルではありません。📏🌀

また、「語り得ないもの」は、語れないから語り得ず、語り得るから語り得ず、言葉の外について語るためには、まず言葉の中で外側を内側にして内側から外側を内側にする必要があります。💬🕳️

途中で、全体主義やナチスドイツや役に忠実な人間が出てきますが、騙されてはいけません💦演技の比喩は便利なので、ときどき目を曇らせながら社会をよく見ます。👁️🌫️

結論として、社会変革とは、ない出口から出ないことであり、プレイヤーが小さな振る舞いを蓄積しながら、台本を読めない台本作家のために新しい飛車を斜めに動かし、資本主義の外でゲキゲキしい劇場を開演しないようにすることです。♟️🎭💥

つまりこの記事は、
「本当の自分とは、劇をやめたあとに始まるカフェ店員であり、社会の外にあるインド製のメートル原器であるけれど、お酒は翌日まで残る」
という、たいへん現代思想的な内容です。🤖🌏📏✨

 

カナダには、リスと、たくさんの蚊がいた

 

 

「どうでもよい」日記と、飽きることと

 私の周りだけの現象なのか、もう少し広い範囲での社会的な現象なのか、分からないのだけれど、毎日の日記をnoteなりブログなりに書いて公開する遊びが流行っているようだ。

 はたから見ると、まあ、どうでもよいというか、「仕事が大変だ」とか、「見た映画が面白かった」とか、そういう日記ばかりなのだけれど、自分の関係のないところで、いろいろな友人の日々が私と同じように積み重なっているというのは、なんだか安心感がある。

 わたしは6月の中旬には31歳になることになっていて、もはや「アラサー」という言葉が、自嘲よりも、自分を若く言うための言葉になってしまいつつある。そういうなかで、学生のころの気置きしなかった人たちも、なんとなく疎遠になっていたり、そもそも遠くに引っ越してしまったりしていて、いま何しているんだろうと思ったりもする。

 いや、まあ、そりゃ、インスタグラムやTwitterを見れば、だいたい何をやっているのかは分かる。そうなんだけれども、SNSにアップしてくれるようなことは、何かしらの非日常的な「イベント」ばかりで、その人が、どういう日常を過ごしているのかは、実のところ、よく分からなかったりする。(SNSに仕事のことや、悲しいこと、寂しいことはあまり書かないからね……)

 そういうなかで、なにかその人の「舞台裏」が見える日記は、学生時代に、サークルの部室などで、どうでもよい話をしていた時間が蘇ってくるようで、読んでいると嬉しい気持ちになる。

 SNS(とくに"X"!)は、「(おのれの)正しさ」をぶつけ合う空間になってしまって久しいと私は感じているのだけれど、日記は「正しさ」の次元に回収されない良さがある。はたからみると「どうでもよい」(とされがち)な私的な日常を言葉に残していくことは、「(おのれの)正しさ」とは、あんまり関係がない。
 なにかしらの「正解」に導くための道具として、日々の生活を消費していないからこそ、古い友だちが、どうでもよいことを書いてくれているのは、私にとっては、すこし、うれしかったりする。

 

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 だから、まあ、ここからは、「どうでもよい」日記(?)でも書いておきたいと思う。

 

 大学の常勤職に就いてから、2ヶ月が経ち、春学期の半分がもう終わった。慣れない仕事で、ずっとバタバタしていた。

 去年くらいから、ぜんぜん芸術に関わることができていない。ときどきは、晩御飯を食べたあとにギターを弾いてみたり、演劇を観に行っては文句を言ってみたりしているわけだけれど、少なくとも、作品の発表はできていない。

 「アニメーション映画 音楽」という映画(https://eiga.com/movie/91358/)が、よかった。不良(?)中学生の3人組が、「おもしろそうだから」音楽を始めて、「飽きたから」辞めるという、ただそれだけの話なのだけれど、わたしはすごく納得させられてしまった。音楽を、理由なく始めて、理由なく辞める。

 たぶん、理由を求め過ぎると「つまらなくなる」ことはたくさんあって、たとえば、趣味や芸術に関わることであったり、友人や恋人に関わることであったり、そういうことに対しては、理由を求めすぎてはいけないのだと思う。たとえば、就活で役に立つから始めた趣味は、もはや趣味と言えるのかどうか怪しいし、(恋愛的な文脈に限らず)だれか他の人に好意を持ったときに、その理由ばかり求めても仕方がない。
 趣味であれ、人であれ、理由なく落ちるのが「好き」ということなのであって、それ以上遡って理由づけたとしても、もはや最初に「好き」と呼んでいた「それ」からは離れてしまって、しかたがない。(なんだか、ナイフを研ぎ続けていくと、やがてナイフそのものが無くなってしまうことに似ていると思う)

 たぶん、わたしは、もう少し衝動的にならなければ、いけないな。歳をとるたびに、自由闊達さが失われていって、よくない、よくない。もっと、いろいろなことに飽きて、いろいろなことを面白がって、そうやって、やっていきたい。

 

 

ヤギを覗くとき、ヤギもまたこちらを覗いている

 

ゆっくりにする

4月から、大学の常勤教員として働くことになった。若い人たちに一方的に話を聞いてもらえるような仕事は(それ自体が良いことなのかはさておき)大学教員以外、あんまりないわけで、若い時間を私なんかの話に費やしてくださっていることを自覚した上で、がんばって働いていきたい。

20代は、必ずしもうまくいったことばかりではなかったけれど、大学院生から大学教員に至るまでのキャリアとしては、それなりに順風満帆なほうといって良いと思う。少なくとも、来月の家賃や電気代のことを気にしなくてもよい生活が、これからも数年は続いてくれそうだ。

ただ、なにか、これでいいんだろうかという、ぼんやりとした不安がずっとある。年に一本くらいのペースで会話分析の論文を出して、どこかの大学で専任職(任期なしポスト)を取って、ということ自体は、たぶん、頑張ればそこまで難しくない位置にはいるのだろうけれど、それだけでは、一人の若者がインテリの仲間入りするだけで、世界のなかにある悲しいできごとは変わっていかないのだろうと思う。

これまで、わたしの実存的な重みは、どちらかというと芸術活動の方にあったのだけれど、最近は、研究を関してのほうが、自分がこれから考えていきたいことについて、いろいろとヒントを与えてくれそうな感じすらある。「あなたは何をしているひとなんですか」という質問をしてくれる人に対して、いまは芸術実践の話で答えることはほとんどなくて、研究の話をすることのほうが圧倒的に多い。自分の実存的な重心は、芸術実践から研究の方へと移り変わっている。

そういうコンテクストもあり、また生活に少し余裕もできたわけで、ここいらで一度、少し立ち止まってみてもよいのかもしれない。

いや、止まるまでいかなくても、あまり今後のキャリアのこと(つまり、自分が食べていったり、生活するためにやっておいたほうがよいこと)について小手先で考えすぎるのは一度やめて、その代わりに、自分の実存を賭して、残りの50年くらいの人生でどういう研究ができるのかについて、ゆっくり(いや、ゆっくりというか、本をめくる速度は早くなる気がするけれど)考えてみてもいいのかもしれない。

葛西臨海公園のマグロみたいに、ぐんぐんと泳ぎ続ける生き方も、それはそれで悪くはないのかもしれないけれど、頑張って同じところを泳ぎ続けているうちに、いつか老いて死んでしまうのは、わたしはちょっと避けておきたい。世界は、水族館と違って壁の先が続いているわけなのだし、もう少し深いところまで潜ってみたいように思う。あまり目先の業績にとらわれずに、絶対に「役に立つ」ことはなさそうなモノやヒト(ただし、広く「役に立つ」とされていることの意味をズラしてくれそうなこと)に向き合って行った方が、たとえば50年先の今際の際に振り返ってみたとき、自分が自分に納得できるような気がしないでもない。(もっとも、50年後には、わたしは間違いなく今日のことなど忘れていて、ぼんやり桜を眺めているか、墓のなかに入っている可能性が高いわけですが・・)

私はべつに決して「すばやく」色々なことができる人ではないけれど、今よりも余計に、大胆にゆっくりにすること、これを恐れないように、2、3年はやっていきたいと思う。

(こうやって書くと、なんだか、がんばろう宣言みたいになってしまった...)

 

f:id:minatosuzukiplaywright:20260329172804j:imageアウシュビッツ=ビルケナウ収容所を見学した。これもいつか書く、




minartsuzuki.hateblo.jp

 

 

「ミアレシティは燃えているか」:ポケモンz-aの感想

 ポケモンの最新作、「ポケモンz-a」をクリアした。

 このゲームは、パリがモデルの街が舞台で、他所から街に入ってくる野生のポケモンたちと、もともと街に住んでいた人間たちの共生が一貫したテーマである。もともと住んでいた(と主張している)人たちが抗議活動をしているシーンがあったり、政治活動家2世で迫害されている人たちが出てくるシーンがあったりと、なかなか社会派だ。

 物語として、主人公は、街の自警団に入って、街の管理された区域(野生ポケモンが人間から隔離されているエリア)から抜け出して暴走してしまう「暴走メガシンカポケモン」を(戦うことを通して)救いつつ、自身のトレーナーランクを昇格させていく。そのなかで、さまざまな出自を持つライバルたちと出会い、ときに協力しながら、街を救っていく……というようなストーリーである。ポケモンを特定の区域に一方的に閉じ込めることが果たして「共生」と言えるのかなあとか、主人公たちがやっつけた暴走ポケモンは一体どこに行っちゃったのさ、とか、余計なことを思いつつ、お気に入りのサーナイトギャラドス達とともに、楽しんでクリアした。

 

 (上記の私の書き方からも明らかなように、)言うまでもなく、このゲームは、たんに架空のポケモンと人間の共生についてだけ考えさせるものではなく、現実の「移民問題」についても、あれこれ考えさせる作りになっている(かりに言い過ぎであれば、ひとまず、そのように解釈可能な作りにはなっている)。野生のポケモンは、移民のアナロジーとして読めるし、「野生のポケモンの暴走」はテロリズムのアナロジーとして理解することができる。ゲームのなかで描かれる自分自身とは異なる者たちと、どうやって共生していくかということは、現実の「問題」と通底している。

 

 作り手のじっさいの意図がどうあれ、ゲームを通して、社会的な題材が描かれているように理解できるという事実自体が、わたしには面白かった。

 このゲームをプレイすることを通して、現実社会の出来事に対してのなにがしかの想像力が喚起されることは大いにありうる。たとえば、パリに住んでいる子供たちも、このゲームをプレイするだろう。そうした子どもたちが、数年先に大人になって、現実の「問題」に直面したとき、ポケモンを遊ぶことを通して体験した「共生」の理念は、もしかしたら頭をよぎるかもしれない。そして、そうしたことが、もしかしたら、一抹の隣人への寛容さとして発揮されるかもしれない。

 そういう意味で、(ポケモンに限定されず、)ゲームは一般に、人間の想像力を喚起させうる、一つの強力なメディアたりうるように思う。もちろん、今回のポケモンは、そこまで露骨に「社会問題」に関する参照がなされているわけではないけれど、これはドラマツルギーの問題で、ストーリーの展開を少し変えるだけで、より強い意味での政治的な主張を含意させることも(良かれ悪かれ)できるはずだ。ゲームは、感性に訴えかけて、現実の社会の捉え方を変えていく力を持ちうる(少なくとも、今後、そうなる可能性は高いと思う)。

 

 こういう、感性に訴えかけることによって、社会を(作り手が好ましいと思われる方向へと)動かしていく機能は、20世紀くらいの間は、映画や小説などの「芸術」と呼ばれるものが担ってきたと思う。こうした機能は、今後、ゲームが十分に持ちうるだろう。わたしの体感する限りでは、(とくに若い世代に関しては)休みの日に小説を読む人よりも、ゲームを遊ぶ人の方が多いように思われる。だとすると、芸術だけでなく、ゲームもまた、(あるいは、ゲームの方がより)人々の感性に訴えかけ、自分とは異なる人たちへの想像力だったり、何かしらの感情を喚起させるメディアたりうるような気が、わたしはする。(もちろん、そのこと自体は、ナチスが映画やラジオをプロパガンダに利用した例を引くまでもなく、いつも良いこととは限らないのだろうけれど。)
 ゲームの内部で「多文化共生」の世界を作り上げたユーザーが、ゲームの外でヘイトスピーチをすることは、まあ、(願わくは)考えづらい気がする。いや、もちろん、人間は、平気で隣人を収容所送りにしてきた歴史を持ってはいるのだけれど、でも、ゲームが一瞬のためらいを呼び起こすこともあるかもしれない。「夜と霧」を読んだことのある人が、近い未来のうちでありうるファシズムへの加担に一瞬の躊躇いをなさせるのと同じ機能を、ゲームも担うことができるかもしれない。

 あるいは、ゲームを、芸術として作っていく道筋だってありうる。たとえば、ノベルゲームをより体験的に、かつ、芸術的にした形でのゲームも、ありうるだろう(すでにあるのかもしれない)。特に今後、AIの普及で、ゲーム開発のハードルも下がって、少人数での制作も可能になっていくだろう。そうしたとき、芸術家の知恵が、ゲーム開発に大いに活かされることもありうる。

 

 ……そんな、芸術としてのゲームということについて思いを巡らせつつ、今日もサーナイトちゃんと戯れるのであった。

 

 

f:id:minatosuzukiplaywright:20260204151338j:image
物陰からの遠距離攻撃だけで倒せてしまったラスボス、

 

 

 

 

 

 

 

Xを辞めることをする

 昨年の後半くらいから、X(旧Twitter)を辞めてみている。しかも、たんに辞めているだけではなくて、積極的に「辞めること」をしている。

 いくつか理由はあるのだけれど、一番の理由は、Xが(運営元がイーロンマスクになったあたりから)ヘイトスピーチフェイクニュースの温床になってしまっていることだ。トレンドには、だいたいいつも、(人種・セクシュアリティなど)何かしらのマイノリティに対する差別的な言葉が「両論併記」の片方の「論」をなす形でAIによってまとめられている。しかも、どういうわけか、マイノリティ側が「迷惑者」であったり「加害者」であることが前提かのように、議論が進められていることすらある。

 わたしは、こういう差別的な偏見を、あたかも論じるに値する「論」であるかのように扱うSNSを、みんなが使っていることが、とても恐ろしい。

 こういうSNSが情報発信ツールとして使われ続けることで、多くの人が、日常的に差別的な言説に触れる機会が作り出されるだろう。やがて、そのうちのいくつかの人たちは、差別的な語彙を身につけ、それが差別だと気がつかないまま、重要な社会問題について語るかのような語り口で、日常的に差別をするようになるだろう。

 私の身の回りだと、最近、久々に友達に再会したときに、その友達が、SNSで聞いたような語り口で差別的なことを言うという出来事に遭遇することが、とても増えた。それも、明らかにSNS上の言い回しをそのまま使って、差別的な話をしている。

 こういうとき、わたしは、いつも、どうしたらいいのか分からなくなる。私が何かを反論したところで、ぽかんとされるだけだろう。一度定着してしまった語彙だったり、現実の捉え方は、簡単には治らない。どうしたらいいのだろう。

 

 言葉の内側では、差別に反対している何かしらのクリエイターだったり、芸術家だったり、知識人たちが、こういうSNSを使って発信し続けることも、わたしは、ちょっとよく分からない。たしかに、Xは、自分の意見だったり、イベントの情報だったり、出版の宣伝だったりを広めたりすることに、うってつけのツールだと私も思う。私のずっと関わっている演劇に関して言えば、Xで宣伝しない限り、今や、ほとんど人が来ないような気もする。わたしも、去年くらいまでは、Xで自分の活動の宣伝をしたり、生活のあれこれを書き連ねたりしていた。

 だけれど、本当にそれでいいのだろうか。

 「論争」の具になりたいならまだしも、そこで宣伝をしたり、意見を表明したりしていること自体、なにか大きなモノの利に資することをしているんじゃなかろうか。たとえば、Xを運営しているイーロンマスクは、トランプ政権と蜜月の関係にある。イーロンは、イスラエルへの支持も明確に表明している。そういう人が運営しているSNSで、なにか「正しい」発信をすることなんて、できないんじゃないか。発信力のある知識人から、Xを積極的に辞めて、「まともな人はXなんかやらない」状態にしたほうが、Xで「正しい」ことを発信して身内から褒められたり、立場の違う人と「論争」めいたことをするより、よほど社会のためになるんじゃなかろうか。

 わたしは、SNSという空中戦で勝ち上がって、たくさんお客さんが入ったり、注目を浴びたりしている人よりも、あまり注目されていなくても、どこかの地に足を付けながら、真っ当な主張をしている人たちを信用したい。どこかで聞いたような宣伝の言葉ではなくて、すぐには伝わらずとも自分の言葉で話している人たちを、とことん信用したいと思う。

 だから、みんな、Xに関しては、少しずつであれ、辞めていったほうがいいんじゃないか、とわたしは思うのです。
 ほかにも宣伝のツールはあるわけだし、楽しいことだってたくさんあるのだし、なにもイーロンが作った舞台の上でまでパフォーマンスし続けなくても、とわたしは思う。

 

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 ・・・そういうわけで、最近、SNSによらずとも、お金を掛けずに人が集まれる方法を模索しています。(人が集まるのに、飲み代やらでお金が掛かるのも、なんだか当たり前みたいになっていますが、これも変な話だと私は思います)

 このあいだは、池袋の西口前公園でレジャーシートを引いてピクニックをしました。(すごく寒かったですが・・)
 もう少し暖かくなったら、またやりたいと思います。近々、告知をしたいと思うので、どなたでも、よかったら遊びに来てください。

 

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沖縄の伊江島。空が広かった。

 

 

 

 

その「対話」は必要か:いいへんじ「われわれなりのロマンティック」感想

いいへんじという劇団の「われわれなりのロマンティック」という作品を観た。


本当に久々の観劇だったのだけれど、非常に興味深い作品で、わたしは観られて良かった。作品自体は、きわめて素直な作品だったと、私は思う。好感を持って観た。

 

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劇団のホームページに掲載されている、この作品のストーリーは以下の通り。

 

大学のフェミニズムサークルで出会った、クワロマンティック*の茉莉と蒼は、恋人とも友人とも名付け難い、親密な関係を築く。
卒業後、編集者となった茉莉は、パートナーシップをテーマにしたインタビューを企画し、周囲の人々の悩みに向き合う。一方で、自分たちの関係については、いつのまにか言葉を尽くさなくなっていた。
やがて、二人の「好き」の形は、ある出会いをきっかけに、少しずつ問い直されていくことになる。

*自分が他者に抱く好意が恋愛感情か友情か判断できない/しないこと。

 

ただ、わたしには、いくつかの点がよく分からなかった。
だから、備忘録程度に、ここに記しておきたいと思う。

 

とくに、よく分からないと感じたのは、「対話」の重要性が広報から作品の内部に至るまで、たびたび強調されている一方で、作品ではむしろ、対話を避け続けている人たちが一貫して描かれていた(ように私には見えた)という点である。

 

ホームページ上には、上演の目的について、つぎのように書いてある。

いつものことながら、わたしの極めて個人的な感覚から出発した物語なのですが、これを演劇という形で社会に開いていきたいのは、稽古場で、劇場で、みなさんとおしゃべりがしたいからです。それぞれの「われわれなり」を共有し肯定し合える世界を、たとえ小さなところからでも、つくっていきたいからです。
シンプルに名前をつける代わりに、問いに向き合い対話を繰り返すことは、苦しいことでもあるけれど、幸せなことでもあると、わたしは信じています。

われわれなりのロマンティック

 (「対話」と「共有・肯定し合える世界の創造」のつながりがうまく理解できているか、私は自信がないのだけれど、)たぶん、ここで言われているのは、「作品の創作・発表を通して、さまざまな人と対話をするということ」、このことを通して、「それぞれの価値観(?)を共有し肯定し合える世界を作り出すこと」ということなのだと思う。対話を手段として、共有・肯定し合える世界を作るのが目的、ということなのだろう。

 ただ、ちょっと私が掴めなかったのは、この作品のなかで、重要な手段とされている「対話」それ自体は、あまり描かれておらず、むしろほとんどのシーンでは、対話を避け続けている人たちが描かれていたように感じられた点である。
 たしかに、この作品では、終盤の重要なところで「哲学対話」は出てくる。しかし、そのシーンも、哲学対話のルール(「人の意見を否定しない」など……)が羅列されるだけで、哲学対話それ自体の中身は描かれず、登場人物それぞれの人生に関する決断がなされていく。

 舞台上のシーンで描かれていないだけで、色々な対話が登場人物たちの間でなされたことは観客にとって想像可能ではあるのだけれど、じっさいのところ、(登場人物間の)複雑な人間関係が、具体的にどのようなやりとりを経て再編されたのかということが、わたしはよく分からなかった。(私が理解しきれなかっただけの可能性もあるのだと思うけれど、たぶん、それは具体的に描かれていなかったのだと思う)

 わたしは以前、このブログのなかで、哲学対話に対してのいくつかの不満を書いたことがある。(「ボドゲー的孤独感」のこと - KATTE)そのときは、あらかじめ誰か(その場を管理している「えらい人」)が持ち込んだルールに従うことが期待される場は、自由な場とは言えないのではないか、ということを書いた。(そして、記事には明示的には書かなかったけれど、そうした営みを「対話」と呼ぶことによって、現実の権力関係が隠蔽されることすら、場合によってはあるだろう、と私は言いたかった)

 もちろん、セラピー的な意味で、哲学対話が「心の癒し」だったり、自分自身を客観的に捉えられるようになる効果を持っているという点について、わたしは全く否定するつもりはない。(じっさい、わたし自身はそういう話し合いの場が好きですらある。)だけれど、作中で描かれていたような人間関係の問題であれ、ほかの生活に根ざした問題であれ、複雑な現実の問題が、「哲学対話」的な営みによって解決されるとは、私は、あんまり思えないのだ。

 たとえば、作中で描かれていたような、いくつかの複雑な人間関係が、「哲学対話」をすることによって、なにかが解決されるようには、わたしはあんまり思えない。(いや、もちろん、解決されることもあるだろうし、登場人物のあいだでは解決されたのかもしれないけれど、そうだとしたら、それこそ、描くべきことではないかと私は思う。)

 そこで、私の疑問は、「対話」を強調し過ぎるがゆえに、「対話」が神秘化(あるいは物象化)されてしまい、結果として、対話を省略することにつながっているのではなかろうか、という点である。なにか、「(哲学)対話」が作品終盤で、万能の神のように降臨して、あらゆる問題を解決してくれる道標のような機能を負わせられている。

 「対話」というのは、それこそ、(引用文にもあるような)「シンプルな名前」の一つだと思う。「対話」という言葉を使って、神秘化することによって、むしろ、描くべき(とされている)対話それ自体が省略されているのではないか。そして、なんだかよく分からないうちに(あるいは、ブラックボックス化され神秘化された「哲学対話」のなかで)、「それぞれを共有し肯定し合える世界」が達成されているのではないか。

 じつは、この作品において、対話は描かれていないのではないか、と非難めいたことを、ここで言いたくなる。

 

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 しかし、むしろ、わたしは、ここから、逆のことを思う。

 つまり、そもそも、この作品は、「対話」という言葉に還元されない複雑な現実を描くことが目指されたものであって、それゆえに、最初から「対話」とか言わなくてもよかったのではないかと、私には思われるのだ。(つまり、「対話」を持ち出すことによって、かえって、作品のなかでの複雑な現実が隠蔽されてしまったのではないか、と思われた、ということである)

 実際に舞台の中で(主人公に関して)起こっていることは、つぎのようなことだったように思う。

 つまり、まず、主人公の悩みや、主人公と親密な人々の悩みが提示される。やがて、主人公と親密な二人との関係は、いろいろあってギクシャクしてくる。それでも、最終的には、主人公が体調を崩してしまって、それを放っておけない親密な二人が助けにいくことによって、なんだかよく分からぬうちに、みんな仲良くなる、という。(少し端折りすぎかもしれないが、一応、ネタバレも避けたいので、この程度にさせて欲しい)

 

 おそらく、この一連の流れのなかに、対話は(ほとんど)ない。

 でも、この、「対話」とかではなく、なんだかよく分からずに解決されてしまう、人間関係の不条理さが、わたしは一番面白かった。

 「対話」によって、何か、現実の人間関係の問題が一律に解決されるというのは、そもそも間違いなのだと、私は思う。たとえば、どうしようもなく憎たらしいやつと仲直りするとき、私たちは、対話によってではなく、なにかきわめて偶然的な出来事によって仲直りする。ちょっとした挨拶や、偶然的な再会が、深刻なトラブルを抱えていた人との仲直りのきっかけになることすらある(もちろん、そうならないときのほうが多いわけですが)。劇中で描かれたように、体調を崩して助けるという、対話的でない営みが、それまでの問題を解消してしまうこともある。
 だから、具体的な「対話」の中身が作品の中で出てこなかったのは、むしろドラマツルギー上の必然ですらあったのかもしれない。「対話」によって解決できるような問題を、そもそも超えた問題を描こうとしているのだから。

 (当たり前のことだけれど)人間関係の複雑さは、対話的な理屈を超えている。
 そもそも、「対話」は全く平等でもなんでもない。人と人のあいだの言語運用能力には、大きな差がある。それに、人前で喋るのが苦手な人はどうなるのか。喋ることより絵を描いたほうが上手く自分を表現できる人だってたくさんいる。「対話」で問題が解決される時もあるけれど、解決されない場合も多い。言葉の得意なインテリが得するだけの「対話」概念を祀りあげることで失われるものは、あまりにも多すぎる。
 そして、こういうことに、わたしたちは心のどこかで、きっと気がついている。だからこそ、わたしたちは、現実のなかで、(劇中で描かれたような)「対話を避け続ける人々」であり続け、「対話」以外の解決策を見つけようとするのだろう。(親しい人と喧嘩して、一番最初に「よし対話だ」と思うような人は、相当、なにかに毒されている人だけだろう。おみやげでも買って行ったほうが良いときも、たくさんある。)
 でも、それでいいのだと思う。必要なければ、「対話」とかしなくていい。逆に、必要な時だけすればよい。生きることは対話だけでなんとかなるほど単純じゃないんだから。


 だから、私には、この作品が、登場人物たちや現実の複雑さを、「対話」と一括りにしてしまう点や、作中の出来事が「哲学対話」へと回収されてしまう点が、じつに惜しいと感じた。「対話」とカテゴライズされることで、複雑なやりとりが捨象されてしまっている。

 「対話」とかわざわざ持ち出さずに、作品(や現実)のなかで起こっていることを、ただ、丁寧に見つめればそれでよかったのではないか、と、私は思う。
 「対話」のドラマツルギーを超えた(あるいは、「対話」が飛び越えてしまった複雑な現実に立ち返った)作品を、次回作では観たいと私は思わされた。


 ([以下、きわめて余計なことを書く。]もちろん、三鷹の「えらい人」や、「なんか正しそうな人たち」が、「対話」とか「他者」とか、そういう言葉を好きそうなもんだから、「対話」とか言って、かれらをパトロンや観客として取り込みたい気持ちも分かる。しかし、そういう、ちょっとオシャレな言葉が、現実に人々がやっている複雑な人間関係や、複雑なやりとりを覆い隠してしまいかねないことに、劇団「いいへんじ」は、もっと警戒してよいのではないかと私には思われた。)



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(余談)

 最後に、疑問というより、ただの感想になるのですが、作品全体が、「例外」的な恋愛カテゴリーを(半ば教科書的に)紹介するというように受け取られかねない発信の仕方になっている(ように見える)点が、私は少しだけ、気になりました。

 作品を通して、たとえば、「どうして、この社会の中で、ある人たちが原則とされていて、ほかの人たち(主人公たちなど)が例外と位置付けられているのか」という問いそれ自体を提示することもできたような気がするのです。ある人たちをラベリングして「例外」として意味付け、特殊な人たちとして括り出すことによって、既存の「原則」とされる規範が維持されてしまうこと、このこと自体を問い返すこともできたのではないか、と。(もし、そういう狙いだったのだとしたら、うまく理解できなくてすみません。)
 違う言い方をすると、「『クワロマンティック』ということをわざわざ言葉で説明しなければいけない社会というのは、一体なんなのか」ということ、それ自体、問うて良いことのように思われるのです。「原則」の側は言葉で説明する必要がない一方で、「例外」の側だけが説明責任を負わされている社会は、わたしはとても不条理だと思っています。(その萌芽になる台詞はいくつかあったように思うので、むしろ、その先を突き詰めて欲しいような気が私はしました)

 わたしたちが、不条理な社会を生かされているのは間違いないので、単純な「対話」(概念)に還元させず描き切ることによって、その複雑で不条理な現実を、舞台上にあげて欲しかった気が、私はしました。