4月から、大学の常勤教員として働くことになった。若い人たちに一方的に話を聞いてもらえるような仕事は(それ自体が良いことなのかはさておき)大学教員以外、あんまりないわけで、若い時間を私なんかの話に費やしてくださっていることを自覚した上で、がんばって働いていきたい。
20代は、必ずしもうまくいったことばかりではなかったけれど、大学院生から大学教員に至るまでのキャリアとしては、それなりに順風満帆なほうといって良いと思う。少なくとも、来月の家賃や電気代のことを気にしなくてもよい生活が、これからも数年は続いてくれそうだ。
ただ、なにか、これでいいんだろうかという、ぼんやりとした不安がずっとある。年に一本くらいのペースで会話分析の論文を出して、どこかの大学で専任職(任期なしポスト)を取って、ということ自体は、たぶん、頑張ればそこまで難しくない位置にはいるのだろうけれど、それだけでは、一人の若者がインテリの仲間入りするだけで、世界のなかにある悲しいできごとは変わっていかないのだろうと思う。
これまで、わたしの実存的な重みは、どちらかというと芸術活動の方にあったのだけれど、最近は、研究を関してのほうが、自分がこれから考えていきたいことについて、いろいろとヒントを与えてくれそうな感じすらある。「あなたは何をしているひとなんですか」という質問をしてくれる人に対して、いまは芸術実践の話で答えることはほとんどなくて、研究の話をすることのほうが圧倒的に多い。自分の実存的な重心は、芸術実践から研究の方へと移り変わっている。
そういうコンテクストもあり、また生活に少し余裕もできたわけで、ここいらで一度、少し立ち止まってみてもよいのかもしれない。
いや、止まるまでいかなくても、あまり今後のキャリアのこと(つまり、自分が食べていったり、生活するためにやっておいたほうがよいこと)について小手先で考えすぎるのは一度やめて、その代わりに、自分の実存を賭して、残りの50年くらいの人生でどういう研究ができるのかについて、ゆっくり(いや、ゆっくりというか、本をめくる速度は早くなる気がするけれど)考えてみてもいいのかもしれない。
葛西臨海公園のマグロみたいに、ぐんぐんと泳ぎ続ける生き方も、それはそれで悪くはないのかもしれないけれど、頑張って同じところを泳ぎ続けているうちに、いつか老いて死んでしまうのは、わたしはちょっと避けておきたい。世界は、水族館と違って壁の先が続いているわけなのだし、もう少し深いところまで潜ってみたいように思う。あまり目先の業績にとらわれずに、絶対に「役に立つ」ことはなさそうなモノやヒト(ただし、広く「役に立つ」とされていることの意味をズラしてくれそうなこと)に向き合って行った方が、たとえば50年先の今際の際に振り返ってみたとき、自分が自分に納得できるような気がしないでもない。(もっとも、50年後には、わたしは間違いなく今日のことなど忘れていて、ぼんやり桜を眺めているか、墓のなかに入っている可能性が高いわけですが・・)
私はべつに決して「すばやく」色々なことができる人ではないけれど、今よりも余計に、大胆にゆっくりにすること、これを恐れないように、2、3年はやっていきたいと思う。
(こうやって書くと、なんだか、がんばろう宣言みたいになってしまった...)
アウシュビッツ=ビルケナウ収容所を見学した。これもいつか書く、