いいへんじという劇団の「われわれなりのロマンティック」という作品を観た。
本当に久々の観劇だったのだけれど、非常に興味深い作品で、わたしは観られて良かった。作品自体は、きわめて素直な作品だったと、私は思う。好感を持って観た。
----
劇団のホームページに掲載されている、この作品のストーリーは以下の通り。
大学のフェミニズムサークルで出会った、クワロマンティック*の茉莉と蒼は、恋人とも友人とも名付け難い、親密な関係を築く。
卒業後、編集者となった茉莉は、パートナーシップをテーマにしたインタビューを企画し、周囲の人々の悩みに向き合う。一方で、自分たちの関係については、いつのまにか言葉を尽くさなくなっていた。
やがて、二人の「好き」の形は、ある出会いをきっかけに、少しずつ問い直されていくことになる。*自分が他者に抱く好意が恋愛感情か友情か判断できない/しないこと。
ただ、わたしには、いくつかの点がよく分からなかった。
だから、備忘録程度に、ここに記しておきたいと思う。
とくに、よく分からないと感じたのは、「対話」の重要性が広報から作品の内部に至るまで、たびたび強調されている一方で、作品ではむしろ、対話を避け続けている人たちが一貫して描かれていた(ように私には見えた)という点である。
ホームページ上には、上演の目的について、つぎのように書いてある。
いつものことながら、わたしの極めて個人的な感覚から出発した物語なのですが、これを演劇という形で社会に開いていきたいのは、稽古場で、劇場で、みなさんとおしゃべりがしたいからです。それぞれの「われわれなり」を共有し肯定し合える世界を、たとえ小さなところからでも、つくっていきたいからです。
シンプルに名前をつける代わりに、問いに向き合い対話を繰り返すことは、苦しいことでもあるけれど、幸せなことでもあると、わたしは信じています。
(「対話」と「共有・肯定し合える世界の創造」のつながりがうまく理解できているか、私は自信がないのだけれど、)たぶん、ここで言われているのは、「作品の創作・発表を通して、さまざまな人と対話をするということ」、このことを通して、「それぞれの価値観(?)を共有し肯定し合える世界を作り出すこと」ということなのだと思う。対話を手段として、共有・肯定し合える世界を作るのが目的、ということなのだろう。
ただ、ちょっと私が掴めなかったのは、この作品のなかで、重要な手段とされている「対話」それ自体は、あまり描かれておらず、むしろほとんどのシーンでは、対話を避け続けている人たちが描かれていたように感じられた点である。
たしかに、この作品では、終盤の重要なところで「哲学対話」は出てくる。しかし、そのシーンも、哲学対話のルール(「人の意見を否定しない」など……)が羅列されるだけで、哲学対話それ自体の中身は描かれず、登場人物それぞれの人生に関する決断がなされていく。
舞台上のシーンで描かれていないだけで、色々な対話が登場人物たちの間でなされたことは観客にとって想像可能ではあるのだけれど、じっさいのところ、(登場人物間の)複雑な人間関係が、具体的にどのようなやりとりを経て再編されたのかということが、わたしはよく分からなかった。(私が理解しきれなかっただけの可能性もあるのだと思うけれど、たぶん、それは具体的に描かれていなかったのだと思う)
わたしは以前、このブログのなかで、哲学対話に対してのいくつかの不満を書いたことがある。(「ボドゲー的孤独感」のこと - KATTE)そのときは、あらかじめ誰か(その場を管理している「えらい人」)が持ち込んだルールに従うことが期待される場は、自由な場とは言えないのではないか、ということを書いた。(そして、記事には明示的には書かなかったけれど、そうした営みを「対話」と呼ぶことによって、現実の権力関係が隠蔽されることすら、場合によってはあるだろう、と私は言いたかった)
もちろん、セラピー的な意味で、哲学対話が「心の癒し」だったり、自分自身を客観的に捉えられるようになる効果を持っているという点について、わたしは全く否定するつもりはない。(じっさい、わたし自身はそういう話し合いの場が好きですらある。)だけれど、作中で描かれていたような人間関係の問題であれ、ほかの生活に根ざした問題であれ、複雑な現実の問題が、「哲学対話」的な営みによって解決されるとは、私は、あんまり思えないのだ。
たとえば、作中で描かれていたような、いくつかの複雑な人間関係が、「哲学対話」をすることによって、なにかが解決されるようには、わたしはあんまり思えない。(いや、もちろん、解決されることもあるだろうし、登場人物のあいだでは解決されたのかもしれないけれど、そうだとしたら、それこそ、描くべきことではないかと私は思う。)
そこで、私の疑問は、「対話」を強調し過ぎるがゆえに、「対話」が神秘化(あるいは物象化)されてしまい、結果として、対話を省略することにつながっているのではなかろうか、という点である。なにか、「(哲学)対話」が作品終盤で、万能の神のように降臨して、あらゆる問題を解決してくれる道標のような機能を負わせられている。
「対話」というのは、それこそ、(引用文にもあるような)「シンプルな名前」の一つだと思う。「対話」という言葉を使って、神秘化することによって、むしろ、描くべき(とされている)対話それ自体が省略されているのではないか。そして、なんだかよく分からないうちに(あるいは、ブラックボックス化され神秘化された「哲学対話」のなかで)、「それぞれを共有し肯定し合える世界」が達成されているのではないか。
じつは、この作品において、対話は描かれていないのではないか、と非難めいたことを、ここで言いたくなる。
----
しかし、むしろ、わたしは、ここから、逆のことを思う。
つまり、そもそも、この作品は、「対話」という言葉に還元されない複雑な現実を描くことが目指されたものであって、それゆえに、最初から「対話」とか言わなくてもよかったのではないかと、私には思われるのだ。(つまり、「対話」を持ち出すことによって、かえって、作品のなかでの複雑な現実が隠蔽されてしまったのではないか、と思われた、ということである)
実際に舞台の中で(主人公に関して)起こっていることは、つぎのようなことだったように思う。
つまり、まず、主人公の悩みや、主人公と親密な人々の悩みが提示される。やがて、主人公と親密な二人との関係は、いろいろあってギクシャクしてくる。それでも、最終的には、主人公が体調を崩してしまって、それを放っておけない親密な二人が助けにいくことによって、なんだかよく分からぬうちに、みんな仲良くなる、という。(少し端折りすぎかもしれないが、一応、ネタバレも避けたいので、この程度にさせて欲しい)
おそらく、この一連の流れのなかに、対話は(ほとんど)ない。
でも、この、「対話」とかではなく、なんだかよく分からずに解決されてしまう、人間関係の不条理さが、わたしは一番面白かった。
「対話」によって、何か、現実の人間関係の問題が一律に解決されるというのは、そもそも間違いなのだと、私は思う。たとえば、どうしようもなく憎たらしいやつと仲直りするとき、私たちは、対話によってではなく、なにかきわめて偶然的な出来事によって仲直りする。ちょっとした挨拶や、偶然的な再会が、深刻なトラブルを抱えていた人との仲直りのきっかけになることすらある(もちろん、そうならないときのほうが多いわけですが)。劇中で描かれたように、体調を崩して助けるという、対話的でない営みが、それまでの問題を解消してしまうこともある。
だから、具体的な「対話」の中身が作品の中で出てこなかったのは、むしろドラマツルギー上の必然ですらあったのかもしれない。「対話」によって解決できるような問題を、そもそも超えた問題を描こうとしているのだから。
(当たり前のことだけれど)人間関係の複雑さは、対話的な理屈を超えている。
そもそも、「対話」は全く平等でもなんでもない。人と人のあいだの言語運用能力には、大きな差がある。それに、人前で喋るのが苦手な人はどうなるのか。喋ることより絵を描いたほうが上手く自分を表現できる人だってたくさんいる。「対話」で問題が解決される時もあるけれど、解決されない場合も多い。言葉の得意なインテリが得するだけの「対話」概念を祀りあげることで失われるものは、あまりにも多すぎる。
そして、こういうことに、わたしたちは心のどこかで、きっと気がついている。だからこそ、わたしたちは、現実のなかで、(劇中で描かれたような)「対話を避け続ける人々」であり続け、「対話」以外の解決策を見つけようとするのだろう。(親しい人と喧嘩して、一番最初に「よし対話だ」と思うような人は、相当、なにかに毒されている人だけだろう。おみやげでも買って行ったほうが良いときも、たくさんある。)
でも、それでいいのだと思う。必要なければ、「対話」とかしなくていい。逆に、必要な時だけすればよい。生きることは対話だけでなんとかなるほど単純じゃないんだから。
だから、私には、この作品が、登場人物たちや現実の複雑さを、「対話」と一括りにしてしまう点や、作中の出来事が「哲学対話」へと回収されてしまう点が、じつに惜しいと感じた。「対話」とカテゴライズされることで、複雑なやりとりが捨象されてしまっている。
「対話」とかわざわざ持ち出さずに、作品(や現実)のなかで起こっていることを、ただ、丁寧に見つめればそれでよかったのではないか、と、私は思う。
「対話」のドラマツルギーを超えた(あるいは、「対話」が飛び越えてしまった複雑な現実に立ち返った)作品を、次回作では観たいと私は思わされた。
([以下、きわめて余計なことを書く。]もちろん、三鷹の「えらい人」や、「なんか正しそうな人たち」が、「対話」とか「他者」とか、そういう言葉を好きそうなもんだから、「対話」とか言って、かれらをパトロンや観客として取り込みたい気持ちも分かる。しかし、そういう、ちょっとオシャレな言葉が、現実に人々がやっている複雑な人間関係や、複雑なやりとりを覆い隠してしまいかねないことに、劇団「いいへんじ」は、もっと警戒してよいのではないかと私には思われた。)
----
(余談)
最後に、疑問というより、ただの感想になるのですが、作品全体が、「例外」的な恋愛カテゴリーを(半ば教科書的に)紹介するというように受け取られかねない発信の仕方になっている(ように見える)点が、私は少しだけ、気になりました。
作品を通して、たとえば、「どうして、この社会の中で、ある人たちが原則とされていて、ほかの人たち(主人公たちなど)が例外と位置付けられているのか」という問いそれ自体を提示することもできたような気がするのです。ある人たちをラベリングして「例外」として意味付け、特殊な人たちとして括り出すことによって、既存の「原則」とされる規範が維持されてしまうこと、このこと自体を問い返すこともできたのではないか、と。(もし、そういう狙いだったのだとしたら、うまく理解できなくてすみません。)
違う言い方をすると、「『クワロマンティック』ということをわざわざ言葉で説明しなければいけない社会というのは、一体なんなのか」ということ、それ自体、問うて良いことのように思われるのです。「原則」の側は言葉で説明する必要がない一方で、「例外」の側だけが説明責任を負わされている社会は、わたしはとても不条理だと思っています。(その萌芽になる台詞はいくつかあったように思うので、むしろ、その先を突き詰めて欲しいような気が私はしました)
わたしたちが、不条理な社会を生かされているのは間違いないので、単純な「対話」(概念)に還元させず描き切ることによって、その複雑で不条理な現実を、舞台上にあげて欲しかった気が、私はしました。