KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

「ボドゲー的孤独感」のこと

 どこも混んでいるし、友だちは実家に帰っているし、かといって何もしないのも、なんとなく怠惰な気がして罪悪感すら感じるから、年末年始ってば、苦手だ。

 今年から、わたしはパートナーと一緒に暮らしているのだけれども、年末は、パートナーは忘年会に行ったり、実家に帰ったりしているもんだから、哀しきかな、私はひとりでカップラーメンを啜るばかりである。ずる、ずる、ずる……。
(誤解のないように書いておくと、ご飯は、むしろわたしが作ることが多いです)

 

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 この話、うまく伝わるかどうか自信がないのだけれど、ボドゲー的孤独感」という現象、共感してくださる方、いらっしゃらないかしら。

ボドゲー的孤独感」というのは、いま私が命名した孤独感のことで、その名の通り、「ボードゲームをやっているときに感じてしまいがちな孤独感」のことである。「人狼ゲーム」やら、「はぁっていうゲーム」やら、なんでもいいのだけれど、私は、ボードゲームで人と喋っているとき、(それはそれで面白いのだけれど、その反面、)若干の孤独感を感じてしまう。

 たとえば人狼ゲームをやるとして、たしかに目の前の相手とコミュニケーションを取ることはできているのだけれど、「占い師いますか?」みたいなやりとりを通して、目の前の相手と仲良くなることは決してないだろうな、という、孤独感。コミュニケーションを取ること自体をゲームの主要なメディアとしているからこその、他のコミュニケーションのチャンネルの開かれづらさが、少し、あるのかもしれない。

 社会学者のE. Goffmanは、社会的活動のなかで、どの活動に注意を向けるべきなのかを、「支配的関与/従属的関与」という区別を用いて記述したのだった。たとえば、美容室で髪を切るとき、美容師さんの「支配的関与」は髪を切ることである一方で、「従属的関与」はお客さんとおしゃべりすること、になるだろう。

 コミュニケーションを主要なメディアとして展開されるボードゲームにおいては、「従属的関与」としての「おしゃべり」が、少し、難しい。あらかじめ、何を話すべきか/話さないべきかが、ゲームのルールの側で、支配的関与として決められているがゆえに、ルールから自由に、副次的関与のもとでおしゃべりをすることが、難しい。そういう意味で、コミュニケーションを支配的なメディアとするボードゲームにおいては、おしゃべりしづらさという意味での、いささかの孤独感を感じてしまう。このゲームをいくらやったところで、互いの何かが分かることは決して無いだろうな、という、孤独感。

 それは、人狼ゲームでの相手が、かしこいAIに代替可能である孤独感とも、やや似ている。つまり、相手役の人は、その人がこの場に至るまでの歴史は全く関係なく、「占い師」である限りにおいてコミュニケーション可能な存在なのであって、かりに「占い師」としてのコミュニケーションさえできれば、AIに置き換えてしまったとしても、ゲーム進行上はさほど差し支えはない、という。「占い師」としての振る舞い以外の、その人のその人性に対しては、注意を向けるべきではないとするような、人と人が出会い難い孤独感が、ある。
(とはいえ、嘘つくの苦手な人が、つい顔に出ちゃうみたいな、その人のその人性がこぼれ出るときの可笑しさも、ボドゲーにはあるとは思いますが。)

 

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 こういう孤独感を「ボドゲー的孤独感」と名付けたとき、あらかじめルールが明確に決まっていて、参加者がルールに対しては言及できないような、ワークショップ的な場においても、こうした孤独感は現れうるよなあと、ときどき、思う。

 たとえば、「哲学対話」的な場所で、あらかじめ決められたルールがファシリテーター側から持ち込まれてくると、わたしは、けっこう、「うげえ」となる(もちろん、いい哲学対話もたくさんある)。
 とくに(先述のリンクのなかだと)「知識ではなく、自分の経験にそくして話す。」というルールは、知識/経験という区別を、みんなが同様に付けることができるということが前提とされているように思うのだけれども、そんなにクリアに「知識」と「経験」を区別することなんて、できるんだろうか。経験を語るときに用いられる言葉は、どこかで獲得されたものであるという意味で知識だし、逆に、知識もまた、本を読むという行為によって獲得された意味で経験といえそうな気がする。いずれにしても、知識/経験という区別は、万人に開かれたものではない。そうだとしたら、じつは、ファシリテーターの側で持ち込んだ区別が、語るべきこと/語らないべきことを暗黙理に決めているような気がしてしまう。
 もちろん、インテリぶった人が、ほかの人がよく分からない言葉でペラペラ喋りまくるのが嫌だということもあるだろう。でも、そういう場合でも、そのつど、「みんなが分かるように話しましょう」とファシリテーターの側で指摘すれば済む話のような気がする。(多くの場合、本人もよく分かっていないことの方が多い気がするので、それを言うこと自体が、考えを整理するきっかけになることもあるだろう。)それは若干面倒くさいのだけれど、そういうコミュニケーションのコストは、あんまり省略しないほうが良いようにわたしは思う。

 あと、「人の言うことに対して否定的な態度をとらない。」というのも、わたしはよく分からない。参加者の中に、私にとっては差別的だと感じられる発言をする人がいたらどうするんだろう、と思う。意見を否定されたからといって、あなたの人格が否定されたわけではない、という受け手側のスタンス作りの方が大事な気がする。否定の全否定は、大切なことを、いろいろと取りこぼしていく感じがする。

いずれにしても、あらかじめルールはどこかで決まっていて、ルールの側に参加者側が介入できないというのは、あんまり自由な対話ではないのでは、と思ってしまう。

 

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「カラスは発情期になると近づいてきた人間の頭を蹴り飛ばしてきます、構造上飛びながら叩くことはできません。」

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 noteのエディターと違って、「はてなブログ」のほうが、文章が散文的にになるなあ、と思う。 「カラスは発情期になると近づいてきた人間の頭を蹴り飛ばしてきます、構造上飛びながら叩くことはできません。」という文が、なんとなく面白くて、入れ込みたかったのだけれど、この記事には、うまく入れられなかった。最後まで収集がつかなくなって、無理やり入れてみた次第である。(ちなみに、この文は、大学でカラスに襲われかけて、対処法を調べていたときにネットで拾った。帽子を被ると襲われなくなるらしい)

 

 

 書いている文章が、少し散文的になり過ぎている感じがするので、年末年始は、詩か戯曲、短いものでもいいので書いてアップしたいと思う次第であります・・。カーカー。

 

 

今年は博士号がとれてよかったけど、それだけじゃ何にもならんなとも思う、世界のあれこれについて、眺めることくらいしかできない