KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

からだのやさしさから考えたい

 

「やさしさ」を明文化したり、ルール化したりすることに対して、警戒していきたいと思う。

 

「やさしさ」って、そもそもそんなに簡単に言葉にできるものじゃないというか、「これこれのルールを守っているから優しい」とか、そういう話ではなかったと思うのだよな。もっと、道で倒れている他人をさっと助けるとか、電車で落とし物をして降りていこうとしていく人にとっさに声をかけるとか、そういう、からだの瞬発性のことを、わたしは「やさしさ」と呼びたい気がする。

 

ルール化されたやさしさと、からだのやさしさを区別したい。わたしは、ときどき、いろんなグループとか、集まりとかに参加させてもらうことがあるのだけれど、なにか最初から「やさしいルール」が決まっていて、それについては問いかけることができない、という構造を感じてしまうと、途端に参加する気がなくなってしまう。(より正確に言えば、「やさしいルール」を決めている人に対して、無意識に自分自身が忖度し始めるのをかんじてしまって、自分に嫌らしさを感じて、参加しなくなってしまう。)

たしかに、デリケートな内容について話すときには、主宰者側が、ある程度、ルールを明確にしておいた方が、みんな安心して参加できるということもあるだろう。無駄に傷つく機会は少ない方がいいと私も思う。ただ、そんなにセンシティブとは思えないテーマで、いろいろ予めルールが決まっていると、途端に、私にとって参加のハードルが高く感じてしまうのだよな。そもそも、そのルールは誰が決めたんだろう、とか、気になってしまう。

 

何年か前に、劇場関係のオープンダイアローグのイベントに、一般の参加者として参加させてもらったときに、「批判はしない」みたいなルールが予め決められていて、わたしはちょっと怖いなと思ってしまった。だれが、批判と、そうでないものを区別するのだろう。あるいは、ルールの側が間違っていたらどうするんだろう、とか、いろいろ、面倒くさいことが頭を巡ってしまった。(そのときは、イベントが終わったあと、ファシリテーターの方に、オープンダイアローグについて書かれた本を教えて欲しいと聞いたら、そんな簡単に分かるものじゃないから、これこれのイベントに来なさい、みたいなことを言われて、ちょっとびっくりしたのだった・・。)


なにか、そういう、「予め定められた優しさ」みたいなものに遭遇することがこの数年増えていて、げんなりしている。ルールのもとでの「予め定められたやさしさ」のなかでは、そこで見過ごされている問題を指摘すること自体が、「優しくなさ」として現れてきてしまうだろう。だけれど、たとえばナチ政権下のドイツで、遵法意識だけ高かったアイヒマン(ナチのホロコーストを法に則って進めた人物のこと)に対して反対した、当時の政権下では違法だった人たちのことを、わたしは「優しくない」人たちとは、とても思えない。むしろ、「やさしい」とはそういうことのような気がしている。ルールのもとで「予め定められたやさしさ」と、「からだのやさしさ」の間には、天と地ほどの差がある。

そもそも、社会のなかでメジャーな価値観にベタに生きている限り、その社会で起こっている排除は、排除としてすら、きっと見えてこないだろう。排除は、巧みに隠蔽されている。そうした排除は、ときどき顔を覗かせたとしても、一瞬でいつもの日常に埋めこまれていくだろう。すでに発見されている排除の問題を「コスパ良く」解決していくことも重要なのだろうけれど、その一方で、一瞬で過ぎ去っていく、日常の小さな排除に敏感でありたいな、わたしは。

 

天から降ってきた「やさしいルール」をありがたく享受するのではなくて、そもそも、何が正しいのかすら分かり合えない人たちと、とりあえずのルールを話し合って決めていくところから、ちいさな社会をはじめていけたら、と思う次第であります・・。

 

 

 

ぼーっとする散歩を日常へ差し戻したい