KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

結婚と家族について、あれこれ(マイルドな排除にあらがいたい)

 

どうも、既存の結婚制度について、私はあこがれが持てないでいる。

 

今年の4月から、パートナーと半同棲のようなことを始めた。世間一般だったら、つぎのステップとして同棲、やがては、結婚が待ち受けている、ということになるのだろう。


周りの同世代の友人たちは、結婚し始めたりしていて、友人が幸せになることは大変嬉しいことだ。その一方で、制度的に結婚したからといって、その後の幸せが保証されているわけではないよなあ、と、いつも思ってしまう。(だからこそ、「末長くお幸せに」は意味があるのかもしれない。わりと不幸になるパターンもあるので・・)じっさい、私の両親はあんまり結婚が幸せを招いているパターンとは思えないし、既に離婚している友人も周りにいる。


制度としての結婚と、ともに生活することとしての結婚を、分けて考えられないかしら、と、しばしば思う。(もはや、後者の方を結婚と呼んで良いのか分からないが、とりあえず、ともに生活しているのだとしたら、家族になるとは言って良いように思う)わたしは同性婚に強く賛成しているけれど、他方で、そもそも、1:1のペアを前提とした結婚制度自体にあんまり賛成していない。(そこではポリアモリーの人をはじめ、多くの人たちが排除されている)


あんまり制度上の結婚どうこうは、(自分たちで決められる幸福のかたちではないので)ひとまず抜きにして、
パートナーとの幸福のかたちを、日々探っていきたい次第であります。

 

 

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一応、「拡張家族」という取り組み(?)も最近はあったりするらしい。

このサイトの石山アンジュさんの発言によれば、

>拡張家族とは、血縁や制度によらず相手を家族だと思ってみようという意識を持ちながら一緒に生活してみようというコミュニティです。

とのことである。


私も、こういう自由な意思に基づく家族観に、わりかし賛成なのであるけれども、一方で、「はぐれ者」は追い出されたりしないんだろうか、とか思ってしまう。

つまり、血縁型のコミュニティだとしたら、「はぐれ者」だからといって家族を辞めさせることはできないけれど、「意識」に基づいて作る家族だとしたら、「はぐれ者」は、巧みに追い出されてしまいやしないだろうか、ということである・・。(もちろん、血縁・制度といった既存の家族に対してのオルタナティブとしての価値はあるかもしれないと私も思うのだけれど、排除の問題と、どう向き合うのかは、じつは結構難しいことのような気がしている。)

 

コミュニティについて考えるとき、「地縁」や「血縁」から、同じ趣味を持つゆるいつながりのコミュニティたる「趣味縁」へ・・というのは、わりと最近よく聞く話である。ただ、私は、「趣味縁」のコミュニティって、既に参加している人たちとうまくやっていくための「コミュニケーション能力」(あるいは、「文化資本」だか知らないけど)が前提になっている気がしていて、そういう「趣味縁」的な繋がりだけが社会を覆っていくと、こぼれ落ちた人たちをどう掬い上げていくかという問題が出てくるよなあ、と思う。メンバー全員が、「おもしろい人」になれるわけではないので。(地縁・血縁でも排除の問題はありうるけれど、「趣味縁」の場合は、「やさしさ」を伴って、マイルドな排除が起こったりするから、なかなか難しいように私は思う)

たとえば、音楽好きのコミュニティに入るためには、ある程度、音楽についての知識と、音楽について喋ることのできる能力(文化資本)が必要なわけで、わたしみたいに、まごまご喋る人間の居場所は、あるのかどうか、という、心配である。(とはいえ、だからといって「血縁」や「地縁」の社会に戻ろう!とか、今更そんなこと主張する気もないのだけれど・・。)


どういう形であれ、人は人とつながり合っていなければ生きていけないと私も思う。そして、地縁血縁はもはや崩壊しつつある以上、コミュニティは、自分たちで作らないといけない。そのときに、趣味の繋がりは、人と人が繋がる材料になりうるだろう。だけれど、そのときに必ず起こりうる、「マイルドな排除」とでも呼ぶべきような、そもそも前提の時点において、人工的なユートピアからやさしく排除されている存在を忘れぬよう、生きていきたいと思う次第であります・・。

 

 

 

琵琶湖。今年のクリスマスは教会にいきたい