KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

貧乏などをオープンにする

研究したくない日、というのはときどきあって、今日がその日である。

自宅の作業部屋の机に向かっているのだが、関係のない演劇の動画を観たりしてしまっていて、原稿のwordファイルを開く気になれないでいる。だから、今日は、今年立てた目標について、ここに書き記していきたいと思う。

 

年の頭に、2024年は色々なことをオープンにやっていく、という目標を立てたのだった。これまで仲間うちだけでやっていたことを、もう少し広い範囲の人が参加できるようにしていこうと試みである。

まずその取っ掛かりとして、ラジオやTwitterのスペースを、年末にやってみたのだった。(いい加減なことを私が喋りまくっていて、けっこう恥ずかしいのですが、よかったらぜひ)

t.co(読書会を一緒にやっているともだちと、ラジオをやってみた)

 

2023年は、比較的クローズドな形で読書会だの、作品制作だの、やっていたのだけれども、やはり、議論したことや、制作したものは公にしないと、社会に差し戻していくことはできないなあと、昨年を振り返って改めて感じたのだった。

クローズな形での議論は、継続していくと共通の言語ができてくるし、闇雲に(一方的に匿名で)攻撃されたりすることもないので、プライベートなものごとを含むトピックについて議論するときには向いていると思う。ただ、その一方で、議論を重ねていくなかで、だんだんとそれぞれの考え方がすり合わされていって、やがて自分の考えが変わる機会は減っていくようである。

それはそれで、決して悪いことだとは思わないのだけれど、似た考えの人が集まっているだけなようにも思えて、少し、物足りない感じが、私としてはしてきた。だから、今年は、そういう仲間内での議論だったり作品だったりを、ときどきオープンにしてみたいと思っている。

 

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演劇のチケット代が最近高い。

豆腐やモヤシ、タレのついていない納豆ばかり食べている私は、4000円も払って観劇に行けなくなってきた。だから、自分がやる演劇は、劇場とかではないところを借りて、チケット代も1000円くらいにできたらと思う。支援したい人はカンパ箱に入れてもらって、金がなくてチケット代が重たく感じる人は、そのカンパ箱から支払ってもいいです、ということにしたい。

 

こういう制作的なこと、いくらでも思いつくけども、演劇業界で、こういう試みをやっている人がいないというのは、どこもやっぱり苦しいのだろう、と思う。

 

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「オープンにしていく」のと関連して、最近わたしは、自分の貧乏さをあんまり隠さないようにしようと思っている。

基本的に、資本主義社会においては、貧乏であることは公言しないほうが、(金銭に限らず)あらゆる意味での投資が得られやすくなるので、お金は入ってきやすいと思う。人も金も、いかにも儲かっていそうな人のところに集まってくる。

演劇の場合だって、人気の劇団はやっぱり一度観にいきたくなるし、誰も観に行かないような劇団は、あんまり足が進まない。つまり、お客さんが集まらないから閑古鳥が鳴くのではなくて、閑古鳥が鳴いていそうだからお客さんが集まらないのだ。

だから、悲しきかな、いかにも儲かっていそうで、人脈もあって、困ってなさそうにするのが、こういう、くだらない社会を生き抜く上では最適解なのだろう。

だけれど、それこそが、社会のくだらなさの延命装置になっているのだと思う。ほんとうは、困っているときには困っていると声に出して言った方がよいはずなのだ。同じように困っている人同士で助け合えるかもしれないし、困っている人同士がつながり合って、法律や制度を変えたりできるということもある。あたかも金持ちであるようなフリをして、変なやつがたくさん集まってくるほうが、よっぽど、わたしは、おっかない。

貧乏や貧乏くさいことは、恥ずかしいことでは決してない。貧乏を隠して、誰とも助け合わず、社会の仕組みを変えようともしないことが、何より、わたしは、恥ずかしい。


……だから、貧乏であることや、困っていることを、なるべく今年はオープンにしていきたいと思います。

 

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ドイツ語で公共性は、Öffentlichkeit(エッフェントリヒカイト)であり、その語源のÖffnen(エフネン)は、英語のオープンと同語源であるらしい。たしかに、どちらもゲルマン語だけあって、発音も似ている。だからまあ、それに託けるかたちで、今年は、いろいろなことをオープンに開いていって、結果として公共性に資する活動ができたらいいなあと思っている次第であります。

 

 

 

今日の夢にはくらげが出てきたな、