「音」とされてしまう「声」に、耳を傾け続けたいと思う。
以前、東京芸術劇場で上演された、「弱いい派」と呼ばれた小劇場劇団の作品集、芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』に寄せて、つぎのような評を書いたのだった。
だから、そもそも、それが「かそけき声」なのかどうかも、「知性主義者」たちには、よく分からない。だからこそ、彼らのことを、ジャンキーなノリで盛り上がっているイタい人たちとして見てしまうし、時として、「反知性主義」という言葉を使って揶揄したりしてしまう。
この記事で、私が言いたかったのは、こういうことだ。つまり、「声」にもなりきれない「音」を、「弱さ」の肯定を図るリベラルは、聴き取ることができているのかどうか、ということだった。作品集のサブタイトルにあるような、「かそけき声に耳をすます」という表題は、じつは、すでにそれが「声」として聴き取ることができるということを前提としてしまっている。
「弱い」とされている「声」に耳を澄ますことも重要だ。けれども、その一方で、強い/弱いという連続的な「声」の区別以前に、そもそも「声」としても聞こえない「音」がある。「音」は、そもそも対話の舞台に載せられる資格すら、奪われてしまっている。
わたしがこの企画に対して抱いていた違和感は、東京芸術劇場で上演できるような人々も、観劇できる人々も、ある程度、文化資本を持っている層であったこと、つまり、「声」を持つ人々のようにみえたからだ。劇場の外には、ホームレスの人たちもいる。休みの日に演劇を観にいく余裕がない人たちもたくさんいる。人文系の本や戯曲を読んだりしたこともない人の方が多数派だろう。そういう人たちの目に、この企画がどう映ったのか、わたしは気に掛かってしまったのだった。
(ちなみに、要約の過程で出した「声」/「音」の区別は、ランシエールという哲学者の議論のまねです。「弱よろしく派」の記事を書いたときは、ジャック・ランシエールのこととか知らなかったのだけれど。)
わたしは、声を持たないような、劇場の外の人々に耳を澄ましたい。ある特定の属性を「弱さ」という言葉で記述可能な時点で、すでに、その社会運動は半分くらい達成されているように思う。少なくとも、その属性を持つ者が、社会的に弱い立場に置かれてしまうという、問題が、問題として、すでに発見されている。
どんな実存の苦しみでもそうだと思うけれど、その語彙がないからこそ、苦しいのだ。わたしの苦しみの理由なんて、言葉で説明できるはずがない。そのための言葉が、この社会にないのだから。耳なんか傾けるよりも、一緒に海を眺めてくれた方が、よほど嬉しい、私は。
発見されていない「弱さ」、語彙にない「弱さ」は、今も多くあるだろう。そういう「弱さ」は、もしかしたら、演劇で、どうにかできるのかもしれない。何のためにそれを作るのか、何かを作品として生み出すことに関わる私たちは、ずっと考え続けなければいけない。助成金とか動員とかどうだっていい。優等生のための演劇よりも、本人にもよく分からないまま、突然学校に来なくなってしまったあの子のための演劇を、訥の芸術を、わたしは観たい。
このあいだから、「声」にならなさ、をテーマに、仲間たちと音楽を作っていました(共作です)。
一つめの曲ができたので、いつか、何らかの形で発表できればとおもいます。