KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

こころをマネジメントしない

「アンガーマネジメント」という言葉、ちらほら耳にする言葉だけれど、あんまり、わたしは馴染めない感じが、どうしてもしてしまう。


そこで言われているのは、(基本的には)業務を円滑にするために、自分で怒りをコントロールしよう、というような話で、なにか自分たちが歯車化されて油を差されているような気持ちになる。

たとえば、デモは民衆の怒りに基づいていると捉えるのが一般的な気がするけれど、そういうデモ的な「怒り」もマネジメントしてしまっていいのだろうか。個人が社会との間に持ちうるザラザラとした摩擦を、個人の側に油を刺していくことによって、最初からなかったことにしてしまうことって、なかなか危険なことだよなあ、とわたしは思う。

 

いや、「アンガーマネジメント」の講師とかやっている立場の人からすれば、デモ的な「怒り」は無くさない方がよい、と当然答えるのだろう(と思う)。
ただ、そうなると、「(マネジメントしなくてもよい)正しい怒り」と「(マネジメントするべき)悪い怒り」の区別が必要になってくるはずで、その怒りの正しさの区別は誰がつけるんだという話になる。もっと言えば、デモ的な怒りでも、良いデモと悪いデモの区別が引かれていくような気がするのだが、その道は、どう考えても、危うい。

そういう、何が正しいのかを決めることのできるような、倫理の基準は、少なくとも「資格」や「(ハラスメントアドバイザーみたいな)職名」によって担保されるものではないだろう。これは当たり前のことだけれど、それでも、そういう「資格」や「職名」を信じちゃうくらいには、みんな、自分自身の倫理への自信を失っている。

倫理的な規則について語っている人が倫理的であるとは限らないのだし、その人が倫理的かどうかは、その人の行ないを見ないと、分からないことだ。規則はわたしたちの振る舞いを原理的には決定できない(もし決定できるとしたら、振る舞いを決定する規則というものが要請されるようになり、じゃあその規則の従い方を決定する規則も・・となり、規則は無限に後退してしまう)のだから、規則は、人の振る舞いを倫理的にし尽くすことはできない。規則への素朴な信頼は、むしろ、規則の運用者に、自分の手元にあった倫理を一任することにさえなりかねないだろう。

 

あたりまえのことだけれど、人間は、怒ったり泣いたりするのだ。

大切なひとやモノを馬鹿にされたり、尊厳を傷つけられたと感じたら怒るし、泣いてしまう。それは無能なことでも、人間として欠陥があるということでも、全くないだろう。

「怒っているヤツ」を、自分をマネジメントできない能力のないヤツとして片付けるのは簡単なことだけれど、耳を傾けていく方向性があってもいいんじゃないかなあと、わたしは思う。「怒り」である限り、大抵、なにかしらの理由はあるわけだし、会って直接、丁寧に話を聴いて、各々(そして、その集団のメンバー)がそのつどの倫理に従って判断していかないと、必ず、わたしたちは教えられる倫理(というか、もはやそれは倫理ですらなく、単に明文化された規則)に身を委ねてしまう。
倫理は、どこかに正解が書いてあるものではなくて、自分の身体とともにある実践のなかで学んでいかないといけないのだと、わたしは、思う。

 

なにか、ザラザラとした現実を、規則を使ってツルツルにしていけば、わたしたちは幸せになれるとするような、規則への素朴な信頼感。そして、そういう規則をどこかの偉い人が教えてくれるという、期待感。そういう、罠に引っかからないように気をつけたい。

 

 

 

十年ぶりくらいに絵を描いた。これは家の近くの猫です