KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

自由にしゃべりたい

zoomでの読書会を始めてから、一年と少しが経とうとしている。

月に2回くらいのペースで開いている読書会で、人文系の入門書(いまは「贈与論―資本主義を突き抜けるための哲学―」という本を読んでいる)を読んで、本を読んで思ったこととか、自分の体験談とかを、いい加減にしゃべり散らかしている読書会で、たいてい、最後の方には全然関係ない話になっているのだけれど、わたしは楽しんで参加させてもらっている。(ぜんぜんアカデミックでもなんでもないところが良いところだと思う)

 

近代に入ってまもない頃の、ヨーロッパのコーヒーハウスでは、おしゃべりが盛んになされていて、そこで話された話し言葉と、新聞などの書き言葉が、相互に影響を与え合うことによって、ある種の公共性が成立していたらしい。

そういう公共性って、今の時代でありうるのかなあ、と思ったりしてしまう。SNS全盛のいまの時代で、話し言葉を使ってコミュニケーションを取るのって、レアになっているような気がしなくもない。ひとびとの個人的な出来事や体験同士が、SNSで共有されつつも、バラバラになってしまっていて、そうしたバラバラさが、紋切り型のやりとりを使うことで、見かけ上統合されているように見せられているような気も、してしまう。

逆に、対面のコミュニケーションの場でも、紋切り型のやりとりに終始してしまうことも、けっこうある。なんだか、仕事の場というわけでもないのに、話していると、マックの店員さんと話している気持ちになってきて、誰が来ても、同じように喋るのだろうな、と勝手に思ったりしてきてしまう。あらかじめどう反応すればいいか全部決まりすぎていて、最初は無駄に抵抗してみたりするのだけれど、だんだん疲れてきて、最後には、おとなしく、軍門に降って、私のほうでも決められた役を演じ始めたりしてしまう(そして、演劇が始まってしまう・・)。

こう、ついつい、すぐに正解を聴いてしまう暴力、というか、すぐに結論を語りたがってしまう欲望から、自由になりたい。すぐに正解を聞き出そうとしてしまうとき、けっきょく、あらかじめ私の頭のなかにある、ちょうどいい図式に当てはめようとしているだけなのであって、実のところ、話し相手のことなど、どうでもよくなってしまっている。目の前の相手と、相手の反応を顔やら身振りやらで窺いつつも、だらだら喋るだけ、というところからしか、人と人のバラバラ感を解消していくことはできないのだと思う、今のところは。

「そっち」があって初めて、「こっち」が分かってくるように、異なる人と出会って、コミュニケーションを取りつづけて初めて、わたしがはっきりしてくるのだと思う(そもそも、「こっち」と言いたくなるとき、「そっち」を前提にしている)。

なるべくダラダラと、迷子的なコミュニケーションをとりながら、「こっち」(と、それぞれの「わたし」)について考えていけたら、さいわいである。

 

郡山の空、と、電柱