KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

はたらく「かお」、ちがった「見え」

9月末で大学院生を終えて、労働の日々が始まった。とくに10月限定で、いろいろ仕事を詰めすぎていて、研究や芸術のことは全然進まなかった。それまでは、「学振」の特別研究員として給料をもらって研究していたし、そのもっと前(2020年まで)は演劇の劇場周りをふらふらしてお金をもらっていたから、「ザ・労働」をするのは、じつは3年ぶりくらいである。


労働するようになって、少し顔が老けたような気がする。
わたしは働いているときの自分の表情、が、あんまり好きではなくて、家に帰ると顔の周りがこわばっているのを感じる。研究室にこもって好きな本を読んで、ずっと好きな芸術に関わっていられたらいいのになあ、とおもう。(こんなことばかり考えているから、わたしはいつまでも子どもみたいな顔なのだと思う)「顔の形が変わってしまう前に、労働から離脱せねば!」と思ったりもするのだが、さいわい、来年の2月くらいからは、また研究がメインの生活に戻れることになった。まだしばらくは、童顔のままでいられそうである。

そういうわけで(?)、ハンナアーレント(という哲学者)の「人間の条件」という本を読み返している。アーレントの言っていることの一部を、わたしなりに噛み砕いてみると、つぎのようなことだ。つまり、人間が、コミュニケーションを取ることが可能な状態で、なおかつ、それぞれのままで(一つの全体に回収されずに)居られることを支えている条件があるのだとしたら、そのうちの一つとして、ある「同じ」出来事を、それぞれが「異なった」視点のもとで見ることを、互いに認め合っているというこということがある。つまり、ある「同じ」絵がウサギに見えたり、アヒルに見えたりというように、「異なって」見えるということを認めつつ、それをもとにコミュニケーションを取っていく、ということである。もし、そもそも、ある出来事が「同じ」出来事であることすら分からないのだとしたら、そもそもコミュニケーションが成立しない(だろう)し、逆に、同じ出来事を同じようにしか見ない人たちの間でも、コミュニケーションは行なわれないだろう(そのときでも、みんなで「ハイル」とは言うかもしれないが、それは、ここで呼ぶコミュニケーションではない)。

(何度でも書くけれども、)わたしたちは、同じものを違うように見るからこそ、コミュニケーションできる。このことは、わたしたちが、異なる人間であるということを支えている。そして、わたしたちは、同じ性質を持ち合わせていなくても仲良くできるし、仲良くするために同じところを見出していく必要もない。


人間に備わった性質(や本質)について語ろうとすると、わたしたちはどうしても、「人間はみな同じだ」というところに行き着いてしまいがちだけれど、それは、「人間と石は形を持つ(延長している)から同じだ」「有機体はみな同じだ」ということに等しい(つまり、なにも言っていないようでいて、静かに、べつの主張が忍び込んでしまっている)。そうではなくて、いま一度、ある出来事が、わたしにとってどう見えるのか(もしくは、どう感じられるのか)を言葉にし合っていきたい。わたしたちに共通する性質ではなくて、わたしたちの間で異なる知覚について語っていくほうが、きっと、面白いだろう。

このとき、知覚をなにか、共有可能な富のように考えたくなってしまうかもしれないけれど、そうではなくて、そもそも知覚なんだから、共有できるわけがない。わたしたちが世界のなかで、どこかしらの居場所を占めている限り、同じ場所から同じ遠近法のもとで同じテーブルを眺めることはできないのだ。知覚が永遠に共有できないからこそ、わたしたちは、永遠にコミュニケーションし続けることができる。

 

こう、哲学のことなど書こうとすると、ちょくちょくアジテーションっぽくなって、わたしの生活の言葉からどんどん離れていってしまう感じが、よくない。アーレントの名前を出しておきながら、自分の話をしている節すらだいぶある。衒学的になればなるほど、ちょっとバカっぽくなってしまう哀しさがある……。とは思いつつ、キーボードを叩いているとアーレントに吸い寄せられてしまうくらいには、顔のこわばった私にとって、アーレントは魅力的なのかもしれない。

 

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