調査に協力していただいた方々や、研究会などでコメントを頂いた方々、また、さまざまな形で応援・サポートしていただいた方々のおかげもあり、昨日、Ph.D.(博士号)が取れることになりました。ご協力いただいたみなさん、ありがとうございました。
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Ph.D.とは、Doctor of Philosophyの略で、日本語だと博士号を意味するものです。
Philosophyの語源が、古代ギリシア語で、Philo(愛する・希求する)+Sophia(知恵)ということは、大学の哲学の授業で教わったので知っていましたが、Doctorについても気になったので、今日、ちょっと調べてみました。
c. 1300年、doctour、"教父"、古フランス語doctourから直接派生し、中世ラテン語doctor "宗教の教師、助言者、学者"、古典ラテン語では"教師"、docere "示す、教える、知らせる"の動詞から派生した名詞、元々は"正しいように見せる"、decere "適切である、ふさわしい"(PIEルート*dek- "受け入れる、受け入れる"から)。
(Online Etymology Dictionaryより:https://www.etymonline.com/jp/word/doctor)
つまり、Doctorは、古典ラテン語でのdocere(教える・正しいように見せる・ふさわしい)などに由来しているようです。
となると、Ph.D.は、その語源からすると、「知恵を愛することを教える者」とでもなるのかもしれません。責任、重大であります。
とくに、何らかの「知恵」を教えることのできる人は、世の中に多いように思いますが、「知恵を愛する」ことを教えるというのは、とても難しいことです。
何かを「愛する」ということは、その愛される何かを、それ自体を手段として捉えるのではなく、目的として捉えるということでもあります。たとえば、「恋人を愛する」ということは、それが何か役に立ったり、喜びを与えてくれるからという理由で愛するのではなく、ただ、その人を唯一無二の存在として認め尊重するということ、でしょう。
そうだとしたら、「知恵を愛する」ということは、知恵を、なにかに役立てるための道具として(いわゆる「情報」として)かき集めるのではなく、知恵それ自体を目的として愛すること、になるでしょう。
ハイデガーという20世紀の哲学者が、『技術とは何だろうか』という本のなかで書いていたことによれば、「技術」が世界を覆っていくにつれて、さまざまなモノやコトが、役に立つための道具であるかのように、わたしたちには見えてきてしまう。たとえば、人間が、たんなる「労働力」として見えてきたり、芸術が、たんなる「商品」として見えてきてしまう。いまの世界で、なにかを「道具」ではなく、それ自体、目的として見て、それを愛するということは、とても難しいことです。
ましてや、「知恵」をそれ自体として愛することは、なおさらでしょう。何か「役に立つ」道具としての勉強ではなく、差し当たりの「役に立つ/立たない」とは関係ないところで、「知恵」自体を目的として愛すること。これは、とても、難しい。
けれども、こういう「知恵を(それ自体として)愛する」ことからしか、世の中は変わっていかないように、わたしは思っています。「役に立つ/立たない」という基準が、いまの世の中から与えられた基準である限り、いまの世の中を変える力を持つことは、論理的にありえません。
「知恵を(それ自体として)愛する」ことは、そうした世の中を、もしかしたら、ちょっといい方向に、変えてくれるかもしれない。「知恵を愛する」ということは、おそらく、そういうことなのだと思います。
こういう、「知恵の愛し方」を教えることが、Ph.D.であるのだとしたら、今の時代においては、とても困難な仕事です。ですが、同時に、意義深い仕事だとも、思います。
Ph.D.として、つまり、「知恵を(それ自体で)愛することを教える」ことを、少しずつ、実践できたら、さいわいです。がんばります。