KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

魔法使いにならないように気をつけたい

 エイジズムに加担するつもりはないけれど、いざ自分のことになると、わたしは自身の年齢をなにかと参照してしまう傾向があるな、と思う。あと1ヶ月も経たぬうちに、20代が終わろうとしている。

 

 演劇(や芸術)へのあこがれと、会話分析の研究とが絡み合いながら過ぎ去っていった二十代だった。ただ、気がつけば芸術へのあこがれはどこへやら、魔法は、解けた。魔法に掛けられることを生きがいとするのではなくて、そういう魔法を作り出している仕掛けについて考えたほうがよさそうだということに、ようやく気がつき始めた。

 舞台芸術を哲学やらと結びつけて、舞台芸術、とりわけ演劇を、社会や政治のメタファーとして捉える批評家は多いし、そういう遊びに、わたしも一時期は関心を持っていた。だけれど、なにか問題のないところに無理やり問題を見つけ出して、それをジレンマだとかいって騒ぎ立てている批評家の悪癖のほうが、最近は目につくようになってきてしまった。
 ある日常の言葉でなされている演劇を、哲学の言葉で記述し直すことができたからといって、そういう哲学の言葉による記述のほうが、日常の言葉による記述よりも優れているということにはならない。 
 わたしたちは、日常の言葉のなかで、まず生きて、出来事と出会っているのであって、その一番最初の事実と向き合うのでなければ。

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 現実の出来事を、現実の日常的な言葉で記述することが知的でないという風潮は、どこから生まれたのだろう。

 「分からない」とされている芸術であっても、業界内では「分かる」ものである以上、それを「分かる」ための何かしらの(日常の言葉を使っている)方法があるはずで、その方法を、反省的に記述し直すこと自体、きわめて知的な作業だと私は思う。

 べつに、「大衆」に分かる言葉で解説してくれという気持ちはさらさらないけれど、こうした「分からない」ことを、ドラマトゥルクや批評家は、観客に分かるように日常言語で記述し直すくらいのことはしてくれてもよいように思う。やれフロイトだのフーコーだのを持ち出して、芸術の言語を、哲学の言語に記述し直したところで、「インテリ」が、「インテリ」の言葉で解釈し直しているだけで、私にとっては、あんまり面白くない。(すべての批評や哲学が「インテリ的」だとは思わないし、よい批評家や哲学者もたくさんいるとは思うのだけれど)
 むずかしい言葉や哲学者の名前をたくさん知っていることが評価されるのは、大学受験やwakatteTVまでで十分で、もう少し、批評家は知的であってもよいのではないかと思う。 (ちょっと悪口がすぎたかもしれない)

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 語るに値する何かが、あらかじめ決められているというのも、たぶん間違えている。

 作品のなかのすべての出来事は、どんなに些細なことであっても、語るに値するものでありうるし、現実のすべての出来事もまた同様に、語るに値するものでありうる。
 予め用意された「語るに値するもの」のフィルターを通り抜けてきたものについてだけ語っている限り、個別の作品について語ったことにはならないだろう。それは、作品から特定の(「語るに値する」とされている)キーワードをピックアップして、そのキーワードについて論じているだけで、なんというか、極端な話、作品を見なくてもできることですらある。

 (「社会構造」だって、そうだ。「社会学は社会構造について語るべきだ」というときに、社会のなかから、「社会構造たりうるもの」と「社会構造たりえないもの」が区別されてしまっている。批評家が、観客よりも「語るに値するもの」を作品のなかから峻別して見出すことができるというのは思い上がりだし、社会学者が、ほかの人よりも、「社会構造」に値するものを、社会のなかから峻別して見出すことができるというのも、同様に思い上がりだと思う。)


 「語るに値する」とされている出来事からはみ出してしまう、きめ細かな現実を、(言語ではなく)感性を媒介にすることで露わにできるのが、芸術の一つの特徴だったはずで、批評家には、そういう、これまで「語るに値しない」とされてきたことが、作品のなかで露わになった瞬間こそ、言葉にしていってほしいような気がする。

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 いや、こういう話をわざわざ持ち出したのは、わたしも、多少、難しい哲学の言葉だったり、「語るに値する」とされていることを雄弁に語ったりすることだったり、そういうことにあこがれていた二十代を過ごしていたから、というのもある。

 なんだか難しい哲学の言葉を知っていると、偉くなったような気持ちになる。「エクリチュール」とか「パロール」とか、デリダのこととかよく分からないけれど、無駄に言って格好つけてみたくなる。なんだかそれは、めずらしい遊戯王カードを集めて、友達との対戦で見せびらかしていたときの喜びによく似ている(恥ずかしいことではある)。

 そういう、「知的」とされている何かは、ときに魔術的な効果を持つことがあって、私たちはその「カッコよさ」にわけのわからないうちに魅了されてしまう。ブルーアイズのカードがキラキラ光っていてカッコいいのと同じで、他の人があんまり手に入らない言葉をもっているのは、なんだか、自分だけが使える新しい魔法の呪文を知ったかのようである。「滅びのバーストストリーム」も、「エクスペクト・パトローナム」も、限られた人にしか使えない限りで、魔術的な魅力がある。

 だけれど、そういう魔法に魅了されることは、より魔法を使うことの長けたダンブルドア先生だかヴォルデモートだかの言いなりになることに過ぎないわけで、額に傷のない私たちは、いいところネビルロングボトム(か本田くん)にしかなれない。(ハリーポッター遊戯王を見ていない人はすみません)ひとたび、言葉の権威づけのゲームに乗っかってしまうと、魔法が呪いに変わるように、だんだんと抜け出せなくなっていく。

 だから、今後は、批評を書くとき(そんなときがあるのか知らないけれど)は、なるべく、丁寧に読めば、誰にでも分かるように書くようにしたい。だれも遊戯王やってないところで「滅びのバーストストリーム」とか言っても仕方ない。

 それに、人に分かるように書くことは、余計な権威づけをしない一つの手段だ。逆に、自分がよく分かっていないかもしれない言葉を使うことは、ほかのよく分かっているかもしれない人から、権威づけられる危険性もある。避けられるのであれば、わたしはいずれも避けておきたい。

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 20代の振り返りをするつもりが、どういうわけか、(一部の)批評批判みたいな内容になってしまった。どうも最近の出来事に、ブログは引っ張られてしまうな。

 30代は、魔法使いを目指さないように気をつけたい。

 

 

 

 

沖縄には、近いうちにもう一度行きたい気がする