KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

おやすみ革命

 大学の(教える方の)授業が始まったのもあって、なかなかブログを更新したり、演劇や映画を見たり、小説を読んだりする時間が取れないでいる。ほかの研究者のひとたちは、どうやって、授業やゼミをやったりしながら本を書いたりできるんだろうと、あらためて不思議に思う。博士論文を書いていたときも忙しかったけれど、それぐらいの忙しさが、定年するくらいまで続くんだろうか。

 わたしは、もともと何をやりたかったんだっけ?

 とか、30歳近くなって、いまだに私は考え続けてしまっている。演劇やアートの優先順位は、自分のなかでは高かったつもりだけれど、なんだか生活が忙しくなるにつれて、そのための時間が全然取れなくなってしまっている。「本末転倒」という言葉も、ときどき頭に浮かぶけれど、物語とちがって、「本」も「末」も決まっていないものだから、生きることはなかなか難しい。(まあ、簡単すぎたら、それもそれでわりと飽きてしまいそうな感じもする、いや、飽きてもいいのかもしれないけれど。)

 

 周りの研究者の先輩や、芸術関係者、いつまでも若々しい感じがする。それは、見た目が、とかではなく、その人のさりげない所作振る舞いから滲み出るような、匂いが、だ。生きることに疲れていない感じがするのは、やっぱり、研究をしたり、芸術作品を作ったりして、自分なりに考えていることを(だれかの顔色を窺わず)人に伝えることが、生を錆びつかせないことにとって大切なことなのだろう、と思ったりする。わたしは全体的にふわふわしているものだから、わたしだけ、ある日、急速に老けていかないかどうか、ちょっと心配だ。

 

  

修士の学生時代(2019年)に書いたマンダラチャート

 そういう心配もあって、「もともとやりたかったこと」を探していたら、修士の大学院生のときに作った、マンダラチャート(目標達成シート)がGoogleドライブから発掘された。いま読み返すと、かなり小っ恥ずかしいのだけれど、まあ、5年も前のことだし、公開してしまおうと思う。

 まず、一番の小っ恥ずかしいポイントであるのだが、真ん中の「成功」というのが、今となっては、なんだかよく分からない。この5年間のあいだ、からあげをおいしく揚げることには何回か成功したが、対人コミュニケーションで失敗したことは限りなくある。

 それに、「ビジネス立ち上げ」と書いていたかと思えば、「腸内環境」とか書いてある。何を考えていたのか、ちょっとよく分からない。ヤクルト1000みたいなのを開発したかったんだろうか。「分からないことを分からないと言う」とかは、いい目標だなと、(今もできていないときあるので)ちょっと関心する。いずれにしても、全体的に小っ恥ずかしい。昔のこととはいえ、いまの人格を疑われないか心配である。

 

 こうして、かつてのマンダラチャートを見返してみると、悲しきかな、「もともとやりたかったこと」など、どうやら、なかったようである。

 いや、そもそも、「やりたいことをやろう」とか「好きなことで生きていく」みたいな言葉、2010年代にすごく流行ったと思うのだけれど、あれは、一体なんだったんだろうと思う。

 

 わたしは家でぐーぐー寝て、コーヒーを豆から挽いて飲んで、たまに文章をこうして書いて人に読んでもらって、ときどき感想などもらえたら、とても満足だ。

 そういう意味での「やりたいこと」は、わたしはある程度、今できているように思うけれど、たぶん、2010年代に「好きなことで生きていく」で言われていたことや、うるわしき日の私がマンダラチャートに書いてしまった「成功」という言葉で指していたのは、そういうことではなかったよな、と思う。なにか、イデアのような、理想の生活を追いかけることが、よきこととして考えられていたような感じがする。

 でも、「やりたいこと」しかり、「好きなこと」しかり、「もともとやりたかったこと」しかり、今ここにはないイデアを求めて、そのイデアを模倣していく作業は、キリがないし、いつも、そこはかとない「足りなさ」に付きまとわれてしまう気がする。なんだか、決して食べられないニンジンをトコトコ追いかけている馬みたいな感じである。(もともと資本主義とはそういうものだったのかもしれない)

 だったらば、それよか、あまり「もともとやりたかったこと」とか気にせずに、朝にはコーヒーを豆で買って家でごりごり挽き、うんうんと考えているふりをしながら論文を書き、夜には芸術のことをやったり、疲れて寝てしまったり、そういう、いまの自分が「やっていること」を楽しんで生きていきたい。「やりたいこと」を探すのは、「長さのない棒」を探したり、「1メートルじゃないメートル原器」を探すようなものなのだ。「青い鳥」はイーロンマスクがいなくなれば、戻ってくるかもしれないけれど、チルチルとミチルでない私たちは、それを探すのをやめなければいけない。

 

 「やりたいこと」による植民地化から脱して、100年後には(たぶん)みんないなくなっている無駄な生活への愛を、死守していきたい次第であります・・。

 

アラサーになってしまった