KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

積み立ての詩学

会う人会う人、みんな積立NISAの話ばかりするものだから、(貧乏人のわたしとしては)不安に駆り立てられる。

そもそもNISAとは何なのかよく知らないし、なにを積み立てているのかもいまいちよく分かっていない。そうじゃないことは分かりつつ、「積立NISA」という言葉を聞くたびに、レゴブロックを積み上げている子どもの様子が、なんとなく頭に浮かぶ。わたしのなかだと、黄色とか緑とかの原色のブロックをはめ込んでいく遊びが、積立NISAだ。

具体的になにが積み上がっているのか、私はよく知らない。だけれど、たしかに、ブロックでも、モノでもコトでも、積み上げていくイメージというのは、人を安心させるものがある。ただ、同時に、人はそういう積み上がったモノを、メチャクチャにしてしまいたくなる始源的な欲求も持ち合わせているようにも思う。子どもがトランプタワーでもなんでも、倒すように、積み上げたものを壊すことは気持ちがいい。

かつての首相が言っていた「トリクルダウン」という言葉も、「積み上げ」のひとつだ。積み上げられたワイングラスの構造はそのままに、その中身のカクテルだけが、つぎつぎと溢れて下の方に広がっていく。中身のカクテルがつぎつぎと溢れ出していく様子を想像すると、なにか、ドミノを倒すときのような、生理的な爽快感がある。静的で秩序立っていた構造は、堰を切ったように颯爽と崩壊していく。

人間には、きっと、なにかを積み上げたくなる欲求と同時に、それを崩壊させたい根源的な欲求がある。いやむしろ、崩壊のために積み上げていることすらある。自分で積み上げたものを、自分でぶっ壊すことは、わりと気持ちがいい。

 

技術でも、知識でも、NISAでも、積み立てられるモノは、目の前で起こっている生活の基底的な層を覆い隠してしまうことがある。わたしたちは、自然科学を知ってしまった今では、子供のころのようにお化けと出会うことはできないし、時計の見方を知ってしまった今や、時間は伸び縮みしなくなった。(わたしはポモドーロテクニックとか使っちゃって、悲しいことに、客観的な時間の方に、生活の時間を管理させているくらいだ。)計画的な積み立ては、わたしたちの生活に上から被さって、最初にあった、身体と結びついた下層を覆い隠してしまう。
だとすると、積み上げの崩壊の爽快感は、そういう「積み立て」による覆い隠しを取っ払って、私たちが元々持っていた、生活の根源的な基盤を、瞬間的にであれ開け広げにするところからきているかもしれない。野球だって、一番気持ちがいいのはホームランが出て「走者一掃」したときで、それはボールによって支配されていた秩序だった構造が、ボールがグラウンドの外に飛び出ることによって、一瞬、崩壊するからなのだと思う。ソロホームランより満塁ホームランのほうが気持ちが良いのはそのためだ。走者が溜まったグラウンドがその鬱血に耐えかね、打球の飛翔とともに裸のグラウンドが明らかになるホームランには、エロティックなカタルシスがある。

 

そういうわけで、積み立てNISAの価値は、やがてそれが崩壊したときの爽快感にあるかもしれない。高騰よりも、暴落の方が歴史に名を残しているのは、それが人間に対して、一瞬の根源的な爽快感を与えているからだろう。

だから、やがて来るべき恐慌の日のために、NISAを積み立てようじゃないか。

 

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