KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

センセイと呼ばれること

博士論文の審査に通ってから一年ほどが経った。「センセイ」と呼ばれることが増えて、海外での敬称も"Dr."ということになった。敬称が(Mr.やMs.などに代表される)ジェンダー規範から自由になったのは良いことだけれど、今のところは、全然しっくりきていない。

何を話すにしても、慎重に話さないと、「センセイ」という立場のもとで理解されかねないので気をつけないといけないと何度でも思う。今の日本では、大学院を卒業できるくらいの経済的余裕があった人しか、Ph.D.(博士号)を獲得することは基本的にできない。そういうPh.D.の称号やDr.、あるいは「センセイ」という敬称は、どうもインテリくさい。

個人的な体験談として、博士号を取って、そこそこ有名な私大で教鞭を取る(ことになっている)という話になってから、あらゆる物事で、明らかに話が通りやすくなった気がする。それは、博士課程での修行を経て、わたしの側での分かりやすく話す能力が上がったということもあるのだろうけれど、たぶんそれだけではない。称号そのものが、わたしの捉えられ方を、権力的な相のもとで、出会いに先立ってあらかじめフレーミングしている。

それが嫌で、初対面の人に「社会学者」を名乗ったりすることに対してわたしはとても慎重になっている。仕事を訊かれたときには、とりあえず「教員」と答えるようにしている。(それに、「社会学者」とかいうと、フーコーやらドゥルーズやらの話を仕掛けてきて、どれどれお手並み拝見しよう、みたいな人もいたりしてだいぶ面倒くさいというのもある。)勝手に羨望してくる人も、挑戦してくる人も、称号に出会いたいだけで、わたし自身と出会う気がないという意味で同様に面倒くさい。


博士号の称号が不可避に抱える権力性から逃げようとは思わないし、博士の称号に求められるべきことは責任を持って引き受けるつもりだけれど、称号から私のうちに差し込まれている光が、わたし自身から発されていると勘違いしないように、改めて気をつけたい。

 

https://minartsuzuki.hateblo.jp/entry/2023/07/20/154249