KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

6月に観た作品の感想

6月は国際学会の準備に時間を使ったので、そんなに数は観られなかった。

ちなみに、5月に観た作品については、下のリンクから観られます。↓

minartsuzuki.hateblo.jp

 

以下、いま覚えているものだけ、つらつら書いていきたい。

 

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福田尚代さんの展示「ひとすくい」西船橋で観た。

幼き頃に慣れ親しんだモノ(消しゴムや漫画のコラージュ、本など)が、静謐に配置されていて、美しかった。
回文も良かった。回文には、人間が書いているというより、なにか、天から降ってきた言葉のように感じさせる力がある。すぐれた詩や戯曲もそうだけれど、美しい言葉は、頭から生まれるのではなくて、私を超えた何物かから現れ出るよなあと思う。

 

 

演劇では、身体の景色カタリ vol.4を観た。
観た作品は3つだけで、全てを観ることはできなかったのだけれど、観劇した作品のなかだと、大西玲子さんの「貨幣」が素晴らしかった。 
(これは山下澄人さんのラボで知ったことだけれど)三波春夫の「お客様は神様です」という言葉は、文字通りの意味らしい。つまり、観客を比喩で神様に喩えているのではなくて、そもそも人間が相手ではなく、神が相手である、ということである。

今の時代で、その演目を上演することの意味が大切なのだと思う。目の前の観客に一喜一憂するのでなく、自分が切に思うていることを捧げ出すのでなければ。
そういう意味で、観られて良かったと思える作品だった。

 

 

札幌にも行って、山下澄人さんのラボにも参加した。
ラボというのは、説明しづらいのだけれど、行ってない人にも分かる言葉で言うと、演劇のワークショップにわりと近いのだと思う。ただ、ワークショップと違って、なにか教わるというより、どちらかというと、なにかを作ったりするときの構えのようなものが分かったりする催しだ(と思っている)。わたしにとっては、とても、おもしろい。

コロナ前に東京で参加したきりだったので、4年ぶりくらいの参加だった。

4年前は、まだパフォーマーとして演劇に出ることもあったから、ある意味で「舞台慣れ」していたのだけれど、この4年間全くそういうことをしてこなかったからなのか、私の身体は、なんだか、いつになく緊張していた。

人前で緊張するたびに、(神がいるとして)神に対して緊張するなら分かるけれど、人に対して緊張してどうするんだ、ということを自分で自分に対して思う。おんなじ人でしかないのだし、その緊張が、最後には余計なカリスマを心のうちに生み出してしまう。
人を無意識に評価してしまったり、あるいはされることを無意識に恐れたりして、身体を強張らせて、殻のようになった身体のなかへと逃げ込んでしまう、その感じ、なんとかしたい。
(目の前の)人だけのためでなく、(神がいるとしたら)神のために作り続けなければ、と思う。

 

 

宮森みどりさんの個展『PROJECT ; ONE FAMILY STORY』にも行った。

作り手である宮森さん自身の、家族に関しての映像作品が中心。演技をしていることそのものを、観客に対して隠蔽せずに、むしろ、その人のその人性(実存)が現れる道具立てとして用いている点が面白かった。
一般的に、多くの演劇は、演技の演技性を隠蔽してしまう(演技であることが忘れられるような「リアルな」演技が目指される)けれど、わたしは演技の演技性が表れた瞬間に現れる実存の煌めきに興味がある。

トークショーに、題材として協力してくれたご家族を呼べるのは、題材と誠実に向き合った証拠だよなあと思う。演劇やアートは、ときとして実際に存在する人間を扱うことがあるけれど、本人や、その属性を抱えている人を呼べないんだったら、原則的にやらないほうがいいと私は思う(例外として、加害/被害の図式で取り扱われる問題における加害者本人を呼ぶべきかどうかは、議論の余地があるけれど)。

その作品を、誰に向けて提示して、どう現実と接触していくのかという問題は、ほんとうはマーケティングや広報以前の問題のはずだ。公の場に出すということ自体、現実と接点を持つことに他ならないのだから、芸術や虚構だからなんでもやって良いということにはならない。宮森さんの展示は、そういう(面倒くさいけれど最も基本的な)ことを、とても丁寧に作っていったのだろうということがよく分かるものだったので、好感を持って観た。

わたしの家族(というか両親)はずっと仲が悪くて、それが小さい頃からすごく嫌だったなあと思う。父と母は、たぶん15年くらい口を利いていないし、わたしと母も5年くらい話していない。実家も、とくに挨拶もなく、突然飛び出すようにして今の暮らしを始めている次第である・・。
いずれ、親の老いと向き合わないといけない日が来るのだろうと思いつつ、見て見ぬふりをしている現在である。

 

 

イベント「劇のやめ方・夏至」も観た。

友だちの松橋和也さんの映像作品『平林2294−4』と、矢野かおるメンバーで友だちの小栗舞花さんが参加している即興『浜』を観た。

『平林2294−4』は、「土葬の会」を追いかけた三十分ほどのドキュメンタリー映像作品。仏教的な輪廻思想から考えたら土葬が自然な発想になりそうだけれど、日本で火葬がメジャーなのはどうしてなんだろう、と考えるなどした。
なるべく、いまの日本人は、死(と腐敗)を、そのかつて人間だったものから遠ざけておきたいのかもしれないな、と思う。

わたしは死んだら、どちらかといえば土葬してもらいたい気がする。微生物たちが分解してくれたら、それをミミズが食べ、昆虫が食べ、鳥が食べ、動物が食べ、やがて世界中に散らばっていくだろうから。
生きている時には食べるだけ食べておいて、いざ死んだら食べられたくないというのは、すごくエゴイスティックなことのように感じる。(とはいえ、土地がないから火葬しているのかもしれないし、生きている人の好きなようにしてくれとも思う)


即興パフォーマンス『浜』は、日常の道具やライト、楽器などを使った、即興演奏に近いパフォーマンス作品(演奏がメインだけど喋ったりもする)。素晴らしかった。最近家でギターぽろぽろ弾いているのだけれど、ギターの弾き方が、少しわかった気がした。

わたしが即興が好きだというのもあるのだろうけれど、音楽の原初的な喜びを感じた。zzzpeakerさんのファンになりそうだ、いや、もうなっているかもしれない。

こういう一度きりの、現れては消えていく意味に還元されない瞬間、楽しいなあと思う。わたしも参加したくなった。

 

 

6月は学会で韓国に行った。つぎは芸術を観に行きたい