KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

参加型アートの中断不可能性(おぼえがき)

 

前々回の記事に引き続き、「参加型アート」(特に、始まりと終わりの時間が決められているパフォーミングアーツ)における、観客の中断不可能性について考えてみたい。


 「パフォーミングアーツ」界隈で、観客参加型の上演は、とにかく流行っている。なべて、観客/パフォーマー脱構築(雑にいえば、観客とパフォーマーの二項対立を、演出的な工夫によって超えていきましょうみたいなこと)をコンセプトとして掲げている作品が多いように思う。

 こういう上演型の作品に対して、政治哲学的な文脈で(とくにアウラ型芸術への巻き込みを警戒するファシズム批判の文脈で)、集団を特定のパフォーマーという「カリスマ」がファシリテートして導いていくことの危険性を指摘する(わりとよくある)批判も可能なのだろうけれど、もう少し、ミクロなレベルから考えてみたいと思う。

 ちょっと考えてみたいのは、作品にもよるのだろうけれど、パフォーマー側は上演を終了させる権利を持っているのに対して、観客側は上演を終了させることができないというのが、決定的にパフォーマー/観客の脱構築を難しくしているということである。

 観客は、いかなる振る舞いをとっても、構造的にパフォーマンスに組み込まれてしまう。たとえば、マリーナアブラモビッチの作品に介入した観客も、エリカフィッシャーリヒテ的な意味でいえば、パフォーマンスの循環に取り込まれてしまっている。つまり、上演を止めようとする行為自体が、参加型アートにおいては、パフォーマンスの一部を構成してしまう。

 他方で、パフォーマンスの場を設定したパフォーマーの側は、上演を終了させることができるという点で、パフォーマンスの外側の行為を自発的に行なうことができる。(つまり、パフォーマンスの領域/日常生活の領域という区別において、観客は前者の領域にとどまらざるを得ない一方で、パフォーマーは、上演を終了することによって、後者の領域における行為を開始することができる。)ゴフマンの『フレーム分析』の言葉を借用するなら、フレームを上演のフレームから日常生活のフレーム(あるいは他のフレーム)へと転換させる権利は、パフォーマーだけが持つ。参加型アートにおいては、(演出法次第で)観客は、上演のフレームのなかでしか行為することができない。

 (このブログは備忘録も兼ねているので小難しく言っているけれど、簡単に言えば、パフォーマーだけが上演を終了させることができるということです)


 だとしたら、少なくとも、「参加型アート」であるということそれ自体は、(今の「参加型アート」の流行りのなかで暗黙理に前提されているような形で)民主主義的であることには決してならないよなあ、とか、思ってしまう。パフォーマー/観客のあいだに、「やーめた」って言えることができるかどうかという権利について、決定的な非対称性があるのだから。

 ジョンケージは「4分33秒」で観客のざわめきや外から漏れ聞こえてくる音を音楽の一部として提出した、というようなことをしたとされているけれども、それでも、上演の開始と終了は厳格に決められている。(4分33秒経ったら上演をやめるということ自体が、観客が居合わせる前にすでに決まっている!)

 

 (色々書いたものの)わたしは参加型の作品、結構好きなのだ。結構観に行ったりしている。ただ、こちら側がしていいことが、私が居合わせる前にあらかじめ決定されている感じがして、どうして急に歌を歌ったりしてはいけないのだろうと思ったりする。パフォーマーは急に歌うのに。(わたしの)うたが上手くないからだろうか。だとしたら、パフォーマー/観客の二項対立が、上手い人/下手な人にスライドされただけなのではないかとも思う。

 なかなか、「参加型アート」は難しい。つぎの作品のための備忘録としてここに記す・・。

 

 

空港の飛行機、なんか動いてる大きいものって落ち着く