5月はあちこち遠征していた。いろいろ、観ることができた。
観て、連想的に思ったことなど、つらつら書いていきたい。
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ふじのくに世界演劇祭2024では、いろいろ観た。
きちんと最初から最後まで観たのは、4本。
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SPAC『白虎伝』
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Co.SCOoPP.『まちなかサバイバル!』
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のあんじー『待たない!』
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BONG n JOULE『The Road of Heaven』
観た四作品のなかだと、のあんじーの『待たない!」で、あんじーさんが自転車に乗ってどこまでも去っていくラストが印象的だった。わたしたちの(ブラックボックスの外の)生活において、見えなくなっていくまで見つめるという体験それ自体が、ある種ドラマチックなものであるはずだけれど,ブラックボックスの劇場ではそれができない。その奥行きが体現されていたラストは美しかった。野外ならではである。
SPAC『白虎伝』のラストも、屋外に置かれていた舞台美術が開かれて、闇夜の奥行きが現れるという印象的なシーンだった。
SPAC『白虎伝』のラストも、屋外に置かれていた舞台美術が開かれて、闇夜の奥行きが現れるという印象的なシーンだった。
野外の作品の面白さは、始まりと終わりが、なんだかよく分からないところにも、ありそうだ。ブラックボックスで行なわれる作品、どれもこれも始まりと終わりが大抵決まっているけれど、野外だと、空間的な区切りがよく分からなくなって、時間的な区切りも曖昧になっていくところが面白い。(それは、明示的な登退場がないからだろう)
あるいは、観ている人たちも、観に来たわけでもないけど居合わせてしまった人に観られているという構造もまた、面白いなと思った。少しデモみたいだと思う。
「デモ」にかこつけて、書き連ねておく。1960年の安保闘争の映像を、こないだ見つけて、こういう映像って学生時代は(自分から取りに行かない限り)回ってこないよなあと思った。いまのデモで人が集まっている映像もそうだ。
そりゃ、若者の行動の選択肢に、「デモに行く」がないはずである。映像でも見たことないんだから。
なんだか、たくさん人が集まっているということそのこと自体、主義や主張と無関係に隠蔽される傾向は(権力一般の効果として)あるように思うので、屋外でのアートプロジェクトは民主主義の(人が集まることの)練習にはなりそうだ。
そりゃ、若者の行動の選択肢に、「デモに行く」がないはずである。映像でも見たことないんだから。
なんだか、たくさん人が集まっているということそのこと自体、主義や主張と無関係に隠蔽される傾向は(権力一般の効果として)あるように思うので、屋外でのアートプロジェクトは民主主義の(人が集まることの)練習にはなりそうだ。
映画では、
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『悪は存在しない』
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『寝ても覚めても』
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『関心領域』
を観た。(メモしていないので、いくつか忘れているかもしれない)
濱口竜介監督の作品は、女性の描き方が特徴的(つまり、理知的な領域を超えた部分を持つミステリアスな他者として描かれがちだったように思う)で、そこがいつも引っかかりを覚える点だったのだけれど、『悪は存在しない』は、その領域が、「女性」から「自然」へと移行したように見えて、わたしは引き込まれた。わたしは、「音楽劇」だと感じた。
『関心領域』は、アウシュビッツ収容所の偉い人だったらしい、ヘスとかいう人と、その家族の日常を描いた作品。壁の向こう側の収容所に、目を向けないで生活を成り立たせている人たちの話だと感じた。
収容所のなかは、リアルタイムでは描かれないのだけれど、だからこそ生々しくて恐ろしいものに感じた。ラストシーンの圧が強くて、観ているのが苦しかった。
収容所のなかは、リアルタイムでは描かれないのだけれど、だからこそ生々しくて恐ろしいものに感じた。ラストシーンの圧が強くて、観ているのが苦しかった。
アウシュビッツ収容所の近くに住んでいる人を描いた作品だと、『縞模様のパジャマの少年』もある。高校生のときに、演劇部でナチス政権下のポーランド人の役を演じることになって、そのときに、この作品を観て衝撃を受けたことを思い出す。
こういう映画を見るたび、わたしは「空気」に支配されてしまう人間って、恐ろしいなと思う。昔、「KY(ケーワイ;空気読めない)」という言葉が流行ったけれど、空気なんて、そんなに読めないほうがいい。1930年代から40年代の日本人がみんな空気読めなければ、あんな酷いことになっていなかったような気がする。
「世渡り上手」みたいな人が評価されがちな世の中に、少しずつなっていっているように思うのだけれど、世渡りとか上手くない人のほうが、みんな自分の言葉で話してくれるので、話していてずっと面白い。みんな空気読むのやめてほしい。
5月は、京都にも行って、自分たちの作曲した『訥』という作品の演奏を聴きに行ったのだった。Notation:Mutation | 変異するノーテーションというコンサートの一曲として。
- Max Wanderman (USA) Erosion Study for ensemble
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Francesc Llompart(Spain) No Time Too Loose
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Milan Guštar (Czech)/ Attraction for Four
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Daria Baiocchi (Italy) / Open
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矢野かおる(日本) / 「訥」Unclear Voice for four voices*矢野かおるは小栗舞花・熊谷ひろたか・鈴木南音のアート・コレクティブ
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John Franek(USA/Czhech) / Sorry!Sorry!Sorry!Sorry!
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M.A. Tiesenga(USA) / shape(dream)
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塩見允枝子「春の夜の天宮」(2024)
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寺内大輔「ルールズ」(2024)2~7 名のパフォーマーと 1 名の指揮者のために
はじめて実験音楽のコンサートを聴いた。
わたしは演劇畑なので、楽器の音よりも、人の声に慣れているからか、人の声が、作品に取り入れられている作品が面白かった。歌でもなく、台詞でもなく、 人がぼそぼそ喋っているけれど、意味はよく聞き取れないくらいの。
いわゆる「近代西洋」の音楽が(教養がないので)、私はあんまり得意ではなくて、いつも圧倒されて「すげー」と言うくらいしか楽しみ方をしらなかったのだけれど、実験音楽は、そういうハイカルチャーを求められている感じがそこまでしないので入りやすい。
これらには、初めて聴いたながら、しっかり刺激を受けて、それで、家に帰ってから、ジョンケージの勉強を始めたのだった。
ジョンケージといえば、昔、観客の音や動き、書いたもの、外の光など、偶然性を取り入れた作品を、劇団の旗揚げ公演として最初に作ったりしたことがあった。今思い返すと、あれはジョン・ケージ的で面白かったな、と思う。演劇業界で評価される作品ではなかったけれど、自分たちが信じられる作品だった。
美術展にもいくつか行ったのだった。
どれも面白かった。
(このうちの、どれかの展示を見て思ったというわけではないけれど、)現代美術は、いわゆる「政治」と、どう距離を取るのかが難しいな、と思う。近すぎると、これは芸術と呼ばずにアクティビズムと呼んだほうがいいのでは、と思ったりするし、他方で、距離がありすぎる(個人的すぎる)と、これをいまの社会に持ってくる意味とは、とも思ってしまう。(いや、アクティビズムでもいいのかもしれないけれど、アップデートされた「空気」を読みましょう、みたいなアクティビズムは、少なくとも芸術で改めてやる必要はあんまりないよな、とわたしは思う)
これは6月に観た作品だけれど、大西玲子さんが『身体の景色カタリvol.4』で上演していた「貨幣」(原作・太宰治)がとても良かった。おもに戦時中を彷徨った紙幣が主人公の一人芝居。演劇でないとできないことをしていると思ったし、いまの時代に、この作品を一人芝居として演る意味も、私はとても感じた。
演劇には(あるいは、芸術には)、ときに現実以上の、魔術的な力がある(だからこそ、ときとして危険な術でもある)。久々に、観られて良かったと思った演劇だった。
みんなが、ひとりひとり、自分のことも、隣人のことも、見知らぬ他者のことも、材としてみなしたりせず愛して、生きる意味をひとまかせにせず、自分たちのことを自分たちで決めることができたら、ひとまず近代的な意味での戦争は起こらないような気がする。
まあ、夢想的過ぎるかもしれないけれど。
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観た作品は記録として残るけれど、そのときに考えていたことは、どんどんと過ぎ去ってしまう。考えていたことの備忘録として、6月も書き記していきたい。