KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

断想、差別やパフォーマンスについて

小さなライブハウスのイベントに行ったら、(客席にいる)特定の人をターゲットにした、舞台上のパフォーマーからの差別に遭遇した。ターゲットにされている人は帰ったし、わたしも入って10分経たずに帰った。

こういうこと、すごくときどきある。声をあげられるときもあれば、あげられないときもあって、そういうときは、声をあげて止めに入るべきだったと、いつも思う。

いくら芸術やら社会学やら、読書会やら勉強会やら研究会やらやっていても、目の前で起こっている差別に立ち向かっていけないのだとしたら、何の意味もないよな、と、いつも自分に対して思ってしまう。無力感。


いわゆる「アクティブバイスタンダー」になろう、みたいな話でもあるのだけれど、それは本当に難しい。

ああいうとき、大きな声で歌える歌(でも踊りでもなんでも)を、わたしは一曲持っておくべきなんだろうな、と思う。直接舞台に上がって注意するのが、一番よいことだとは思うし、(社会学者をまがいなりにも名乗っている限り)本当はそうするべきなのだけれども、もし、直接的に正しいことができなかったときには、全く関係のない歌やら踊りやらを、即興でするのも選択肢の一つなのだろうと思う。

(今調べたら、そういうときは、わざと飲み物をこぼして話題を終わらせるというやり方もあるらしい)

いくら「差別はいけない」と口で言っていても、いざというときに行動できなければ、ほんとうに何の意味もないな。

 

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たぶん、「それって差別ですよ」と言うことの本当の難しさは、ほかの人が「差別」だと思っているかどうか定かではない状況で、状況の定義をし直すことにある。つまり、自分が見ている(差別が起こっているという)世界が、ほかの人にとって自明であるかどうか分からないなかで、目の前の世界を定義づけし直す、という難しさである。

やる側は、それを差別を差別だと思っていない場合がほとんどなので、そうしたなかで、ある別の行為(ex. 「からかい」)として理解されている振る舞いを、「差別」としてラベリングしなおすことは、とても勇気がいることだ。

たとえば、バスの後ろの座席にしか黒人専用が座れないという決まりがあった、かつてのアメリカで、その決まりを破って、あえてトラブルを起こしながら、現状の世界を差別的なものだと定義し直していくことは、勇気がいるし、大変なことだっただろう。なんせ、誰もそれを「差別」だと思っていないのだ。単なる「迷惑なやつ」として、既存の世界からは理解されかねない。

でも、あえて、今のこの世界で芸術をやるっていうのは、そういうことのような気が私はする。既存の世界にあえて亀裂をもたらして、知覚のあり方を組み替えるのでなければ、それが芸術である必要は、あんまりなさそうである。

 

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舞台に乗っているということ、パフォーマンスが始まっているということ、それ自体が、客席に対しての相対的な強さであるのだと思う。

一度パフォーマンスが始まってしまえば、客席の側にいる人間は、パフォーマンスを止めてはいけないという規範がある。そういう規範を、私たちは(おそらく教壇という舞台上で先生のパフォーマンスが反復される学校教育の過程で)身体化されてしまっている。

パフォーマンスが開始されている以上、観客を縛り付けてしまっている点で、パフォーマーと観客の平等な関係性というのは、むずかしい。

この不平等さは、プロセニアムの舞台だけでない。あるパフォーマンスの始まりと終わりを決めることができるのが、パフォーマーだけであるということ、このことがすでに特権なのだ。始まりも終わりも、観客の側に委ねるのでなければ、ほんとうに居心地のよい場所を作ることはできないだろう。

 

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「勇気」ということについて、最近よく考える。

与えられた決まりごとや、制度や場所、権威を後ろ盾にしている限り、どんなに正しい振る舞いでも、わたしたちはそれを「勇気」とは呼ばない気がする。身体性に根ざした、認識や思考が及ぶまでもない瞬間の行動だけが、「勇気」の名に値するような気がするのだけれど、そういう価値は、今の世で、もはや忘れ去られてしまっている気もする。(かなしいことだ)

誰かが正しいと言ったからやるのではなくて、とっさの瞬間に、先に身体が動いているのでなければ。こんなところで反省会しても仕方がない。

 

家にかえってギターを弾いていた、勇なき優ではどうしようもない、