KATTE

パフォーミングアーツや社会学のことについて、勝手にあれこれ書いています

いまをなつかしむ

なんだかニーチェのことが頭を過ぎる永劫回帰のことだ昨日から。
もし宇宙が無限回の試行を繰り返しているのだとしたら、これまであったことや、これからあることは、必ず、またあることであるのだし、かつてあったことでもある。だとしたら、いま私が書いているこの瞬間はまたあるのだろうし、かつてあったことなのだ、比喩でなく事実として。だからわたしは未来のわたしのことを見て懐かしむだろうし、かつての私はいまの私のことを懐かしんでいるだろう。
日々をこういう懐かしさに浸りながら生きることができたなら、色々なものごとを大切にできるだろうしどうでもよくもなる。どうせまたあるのだしかつてあったのだから全く同じ形で今も過去も未来も。

 

深夜の覚え書きとして

詩人失格

 noteからはてなブログに移行して、エディタの問題もあるのか、書く文章が理屈っぽくなってきている。(それが自分でも少し嫌で、更新から手が遠のいていた)もうすこし、散文詩みたいに、余裕をもって考えていることを書くようにしたい。

 わたしは、ふだんの仕事がら、理屈っぽくなりがちだと(自分では)思っているのだけれど、もうすこし論理から自由に、言葉を記していけたらいいのになあと、しばしば思う。

 

 分析というのは、なんだか、それ自体では冷たくて暗いものだ。

 科学は、結局のところ、そういうものなのかもしれないけれど、もっと、生活の世界に、言葉を差し戻していきたい感じがする。科学が分析の言葉で世界を語ろうとするとき、たしかに、ときとして不動の現実として見えてきてしまうような、(人間たちの)世界が、言葉からできている(ものでしかない)ということを明確に示すことはできる。言葉からできている限り、世界を変えていくことへの希望を示すこともできるだろう。
 さらに、そこから半歩先に飛び出して、語られぬまま安らっている、世界の外側(言葉の外側)を示すことも、もしかしたら、できるかもしれない。

 ただ、その反対に、ひどいことが目下進行中のいまの社会で、分析的な言葉は、直接はなにもできないなあと思ったりも、する。文学や芸術における、詩の言葉のほうが、よっぽど、(人間たちの)世界のあり方を変えていったり、するだろう。(人の作った世界は言葉からできているのだから)

 

 身体や音楽の力と、言葉から構成されている世界の柔らかさを信じつつ、まことに小さな芸術を、わたしたちの生活に根ざしたレベルから作り続けていくしかないのかもしれない。
 分析の言葉で書かない練習をしていきたい。

 

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  歳をとるにつれて、わたしはどんどん、生意気になっていっているように思う。そのつもりはあんまりないのだけれど、あとから考えると、「ちょっと生意気なこと言っていたかなあ・・」と思ったりする。それは、あんまり身近なレベルで「だれが偉いか」とか気にしなくなってしまったからかもしれない。(とくに社会学を勉強し始めてからは顕著なので、「生意気」になりたい人には社会学はおすすめかもしれない)

 それは、よくないことが起こったとき、生活のために「無難」に黙っているよりは、よっぽど良いことかもしれないけれど、このまま、いつか取り返しのつかないところまで「生意気」になってしまって、やがて生活できなくなってしまうのではないかと、ちょっと心配だ。(演劇周りだと、わたしは、けっこう「面倒くさい人」とか思われているんじゃないかとか、ときどき理由なく心配になったりする、たぶん誰も気にかけてもいない気もするけども、)

 でも、そういう、各々にとって身近な「えらい人」から発されるような、差別や権力を、少しずつズラしていくことからしか、何も変わっていかないだろうな、とも思う。わたしたちは、(それが似合っているかはさておき)せっかく言葉を持っている生き物なわけで、言葉の世界における出来事に介入したいときに、手段として言葉を使うのは悪い手ではないだろう。そのとき、少しユーモアが入ってくれば、なおのこといい。

 ずっと昔、中学生のとき、(不登校の子があつまる)フリースクールに通っていたときに、いつも来ているメンバーの一人休んでいて、誰かがが「⚪︎⚪︎ちゃん不登校になったんかな」とボケると、「いやみんな不登校やろ笑」と誰かが笑ったのを、最近、なんとなく思い出す。そういう、大きなモノから「弱い」とされた側にべったりと貼られたラベルの意味を、ユーモラスに転換させてズラしていくこと、そこにこそ、希望があるような感じが私はする。(ルサンチマンに陥るのではなく、かといって今の軸の中で強者になるのでもなく。)

 

 結局、だんだんと一段落が長くなってしまって、理屈っぽくなってしまった、だめだなこりゃ、詩人失格である、

 

今年も暖かくなってきた、

 



 

「訥」という音楽作品が上演されます

 

 公募に出していた「訥」という現代音楽の譜面が、審査を通過し、アーツコレクティブのRosettaさんに上演してもらえることになった。ありがたいことです。

 

rosetta-music.com

 

 この作品は、簡単にいえば、明確な議論の舞台に載せられる資格を得ることのなかった「声」を、フィラーに見立てて、あらためて舞台上に載せようという作品である。(これについては、この記事でも書いていたので、詳しくは割愛するhttps://minartsuzuki.hateblo.jp/entry/2023/06/29/232304) 

 

 現れることのできるということ、それ自体が持っている特権性や、現れているもの/隠れているものという構造に、自覚的でありたい。

 「弱い (とされた)側」が、どこかに実在している「強い(とされた側)」を転覆させて、新しい秩序を作っていくという話は、確かに分かりやすいのだけれど、なにか、「強さ(もしくは弱さ)」が言語に先立って実在しているかのような、本質主義的な匂いが漂っていて、そうした運動は、人格化された権力者を絶えず措定しながら進められているという点で、今後、あまりうまくいかないだろうなと思う。(そんなに権力って単純じゃないので。)

 わたしがこの1、2年、演劇に対して食傷気味なのは、まさにその点で、複雑な現実を教科書的なフレームに押し込めている限りは、捨象されたクリアなユートピアは見えてくるかもしれないけれど、具体的でカオスな現実は見えてこないだろうな、と思う。「家族社会学ケーススタディーズ」みたいな演劇に、わたしはあまり興味が持てない(いや、少し毒舌すぎるかもしれない)。

 何度も書くようだけれど、すでに顕になっていることではなくて、隠れているものを顕在化させていくことに芸術の価値が(あるとすれば)あるように思っていて、そういう作品を観てみたい(もしくは、作ってみたい)です。

 そういう背景のなか、同じような問題意識を持つメンバーで、共同で制作した作品が、こうして公募を通過して上演されることになったので、大変嬉しく思っています。5/12 京都市立芸術大学 多目的ギャラリー にて、上演していただきます。よろしければぜひ。

 

 

グレーゾーン、社会的意義、ドラマトゥルクのこと

 今日は、ドラマトゥルクについて今考えていることを、芸術の社会的意義という観点からまとめてみたいと思います。
 とくに、芸術に関しての社会的理解があまり得られているようには思えず、芸術業界と社会一般が遊離してしまっている現状もあるように思われますので、その点において、ドラマトゥルクが果たしうる役割について、今考えていることをまとめてみました。

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 芸術の社会的意義を考えるときに、まず、二つのことを考える必要があると思う。つまり、その作品がやろうとしていることは、(1)芸術にできることかどうか(2)芸術にしかできないことかどうか、である。

 (1)「それは芸術にできることかどうか」の方は、はっきり言って、簡単である。たとえば、観光客を誘致するために地方で芸術祭を開いたり、分断が際立つ社会のなかで連帯可能な、小さなユートピアを作ってみたり、ということだ。
 芸術には、「やりがい搾取」の問題などを孕んでいるものの、主に経済的な観点から、さまざまな形で効果があるということが、だいたい実証されている。だから、地域アート然り、芸術の経済的意義について、改めてここで詳しく論じ直す必要は、差し当たってはないと思う。
 芸術は、(それが芸術にしかできないかはさておき、)役に立つことがある。演劇はコミュニケーション教育に役立つかもしれないし、疲れ果てた休日に癒しを与えてくれることもあるかもしれない。それはたしかに、芸術が、既存の社会のなかで「役に立つ」側面だろう。

 ソーシャリー・エンゲイジド・アート然り、リレーショナル・アート的文脈を踏襲した芸術祭然り、芸術は、既存の社会のなかで、役に立つ。

 

 他方で、(2)「それは芸術にしかできないことかどうか」という点は、じつは、けっこう難しい。これは、めいめいの芸術家が、そもそも「芸術とはどのようなものであるべきか」という(ある種イデオロギー的な)問いに対して、切実に考え抜いたときにだけ、答えることの可能な問いだろう。

 この点について、わたしは、芸術の社会的な意義は、日常生活のなかで見過ごされてきた現象を、人々が眼に見える形で提示し直し、社会のなかに引き入れていくことにあると、(少なくとも今は)考えている。
 たとえば、セザンヌの絵にしたって、「客観的な世界」に安らっている人々が見逃していた、世界が構成されていく非反省的な瞬間(それまで意識に昇ってこなかった瞬間)を捉えたものであるし、あるいは、誰にも気づかれてこなかった差別を、見過ごされてきた問題として観客に対して提示するような作品もまた、芸術だと言えるようにわたしは思う。

 

 

 人々が見えているけれど気づいていない(あるいは、気が付いてはいけないことにされている)ような、これまで言葉にされてこなかった、名前のついていない社会問題を、社会のメンバーに知覚可能な形で提示することは、芸術の役割だろう。日常生活のなかで絶えず忘却され続けている言語化されてこなかった混沌を、秩序だった社会(言語化されている世界)に対して突きつけることは、おそらく芸術にしかできない。(あるいは、芸術的行為にしかできない)

 逆に言えば、芸術は、既存の社会のなかですでに問題化されている秩序だった文脈を踏襲するだけでは、少なくとも、それが芸術にしかできないことであるかどうかという問いに答えたことにはならない。すでに名前がついている社会問題は、名前がついている時点で、半分くらいは解決に向かっている。たとえば、「ヤングケアラー」という問題は、近年になってようやく、問題に対して名前が与えられた(与えられた名前が広がった)から、広く理解されるようになった。このように、問題に対して、名前を付けることは決定的に重要である。他方で、芸術は、こうした名指し以前の何かを取り扱う営みであるように、私は思う。

 この点は、エンタメと芸術の大きな違いであるように思う。エンタメは、既存の秩序だった文脈やドラマツルギーを踏襲するがゆえに、分かりやすくて面白い。娯楽という意味では、役に立つ。他方、芸術は、既存の文脈に対して混沌を投げ込んで亀裂を入れようとするがゆえに、分かりづらく、よく見なければつまらない。さらに、短期的な意味では(既存の社会から観察可能な有用性の次元では)、役に立たない。

 まとめると、芸術は、視界には入っているが誰も気づかなかった、名前のない問題を、社会のなかに引き入れていくことをしていく点に、「社会的意義」がありそうである。

 

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  そうした芸術を作ろうとするとき、芸術は、往々にして「よく分からない」ものになるはずである。これまで誰も語ってこなかった現象を取り扱っているのだから。むしろ、直ちに「分かる」ような芸術は、少なくとも先に述べたような芸術にしかできない「社会的意義」を十分に満たしてはいない。

 だとしたら、舞台芸術において、作品と社会とを接続させるドラマトゥルクの存在はやはり、重要なのではないかと思う。たとえばドイツだと、劇場付きのドラマトゥルクが、観客に向けたアフタートークやワークショップを企画し、観客の作品の理解を深め、また、作品が提示した問題に関しての対話を深めるきっかけを作り出しているらしい。作り手と観客との循環を生み出すプロセスにおいて、ドラマトゥルクが重要な位置を占めている。

 他方、日本において、作り手と観客の対話は、あまり積極的には生み出されてこなかったのではないかと思う。たとえば、アフタートークにせよ、有名な(?)ゲストが呼ばれて感想を喋るだけで、それほど積極的に、観客とのコミュニケーションは目指されていないように思われる(ときとして、客寄せパンダみたいになっていることすらある)。そうしたなかで、作品が提示している現象に対して、観客がどう思ったのか、そして、その内容の演出法は適切であったのか、というような議論は、少なくとも劇場のなかでは、あまりなされている感じがしない。あるいは、観客がそれについて議論できるほど、芸術家の側で、明瞭にテーマについて整理することができていない(現場が多い)という現状がある。

 

 そういう状況のなかで、やはり、私は、少なくとも小劇場演劇の業界においては、作品に対して他者の立場から意見が言えるドラマトゥルクが必要であるように思う。もちろん、作り手の側からすると、ドラマトゥルクにかき乱されない方が作りやすいし、その上、ドラマトゥルクが入ったことによる効果も分かりづらいから、ドラマトゥルクの必要性が理解されていないという現状はよく分かる。けれども、作品を、他者の観点を取り入れながら整理し、議論可能な形で社会に差し戻していく必要性もまた、作品の作り手は少なからず負っているように思うのである。
 たとえば、コロナ禍以後、若い演劇人でも、ある程度助成金を取ってから公演を打つというのがベースになってきたように思うのだが、そこには当然、税金が投入されている。そうだとしたら、先に挙げたような、芸術を手段としてしか達成されない社会的意義を果たすことは、作品制作者が負う責務であるように思う。

 また、(1)の「芸術にできること」だけを満たしても当然よいのだが、そうしたとき、芸術の領域自体、やがて経済的・政治的な文脈に回収されてしまうだろう。「金になる」だけなら芸術でなくともよいし、「コミュニケーション能力が身に付く」だけなら、教育でもよい。芸術それ自体の(芸術しか持たない)意義について考えていく必要がある。
 だとしたら、作品を社会に差し戻していくにあたって、他者の立場から、作品に対して意見できるドラマトゥルクは、やはり、いたほうがよいように思われるのである。

 

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 わざわざこんなことを書いているのは、やや「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」的な文脈にアート全体が惹きつけられていることに対して、わたしは少し懸念を覚えているからである。とくに、制作費の高騰もあって、劇場費節約の観点から、「グレーゾーン」(劇場的なブラックボックスと、美術館的なホワイトキューブの間に位置づくような、インスタレーション的なパフォーマンスが行なわれる場所,  アートギャラリーで行なわれる展示型ダンスなどが典型, Bishop 2018)での公演は、演劇業界で増えているし、今後も増え続けるだろうと思う。(とくに、小劇場文化を長年支えてきたこまばアゴラ劇場も今年中になくなるようで、あぶれた若手はグレーゾーン的な空間を志向せざるを得なくなるのではないかと思う)

 こうした「グレーゾーン」的な場所での公演のポテンシャルは、わたしも見定めかねているのだが、ビショップが指摘しているように、SNS的な拡散の文化との相性はかなり良いように思える。
 そうしたとき、どう、作り手が、インスタントな「社会的意義」と距離と取ったうえで、作品の芸術ならではの意義を提示できるかは、作り手に課せられた課題になるだろう。ビショップが指摘するように、グレーゾーンは、SNS上での拡散を競うような新自由主義的プラットフォームに成り下がる可能性も、デジタルな抵抗の拠り所を作っていく可能性も、どちらもあるだろう。

 こうした、舞台芸術が直面している課題を考えるにあたって、やはり、社会と観客の関係性を批判的に検討するドラマトゥルクの役割は大きくなっていく(べき)であるように思われるのである。

 

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日々過ぎ去り続けていく日常、を大切にしたい

 

 

 

 

 

 

 

 

よみちにひはくれない

noteから、はてなブログに移行して、半年くらいが経った。

私はほんとうに「気にしい」なので、「いいね」とか「スキ」とか、ついつい気にしちゃうのだけども、はてなブログはそういう機能がないからいい。評価したり、評価されたり、そういう観点から人を眺める文脈から、自由になりたいと思う。

そういう、評価の文脈から自由になるということが、大人になるということなのかもしれないけども、だとしたら、わたしは大人になれるかどうか、あんまり自信がない。自分が、ほかの人や自分自身を評価しないことから、地道に始めていくしかないのだろうな。

 

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いま、そこそこ忙しかった仕事も終わって、自由な時間が手に入った。それは良いのだけども、つい、3年くらい先の未来のキャリアがチラついたりして、食べていくために小手先でこちゃこちゃやっている節がある。よくない。本だの、演劇だの、映画だのを楽しむ自由な時間が欲しくて、これまで色々頑張ってきたのに、いざ自由な時間が手に入ると、さらなる未来の自由のために、現在のやりたいことを犠牲にしてしまっている。

でも、「やりたいこと」ってなんだろう、とも、ふと問い返してしまう。
「あなたのやりたいことはなんですか?」という質問、子どものときから現在に至るまで、生きることに関する重要な場面で何度か問われてきた記憶があるけども、自分がどう答えたのか、まったく覚えていない。家でぐーぐー寝ていたいときもあるし、おいしいご飯を食べたいときもあるし、太陽が沈むまで河面を眺めていたいときも、そのときの気持ちに応じてあるけども、たぶん、そういうことじゃなく、人生を通してやり遂げたい「使命」みたいなものを訊かれていたのだと思う(ヴェーバーだったらBerufと言うだろう)。でも、もはや革命も起こらないし、再開発でつまんない街ばっかりになっていくし、イスラエルパレスチナ人を殺しまくっているのに見逃されている(ウクライナのときと対応を一貫させろよと思う)し、そんな世界で、やり遂げたいこととか訊かれても、ちょっと困る。わたしの欲望は、社会とは関係のないところで、わたしだけの欲望として胸のうちに秘めさせておいてほしい。

 

日本のZ世代の二人に一人が「子ども欲しくない」とアンケートで回答したらしい(https://webtan.impress.co.jp/n/2023/02/27/44371)けども、そりゃそうだろうなと思う。実質賃金の統計とか出すまでもなく、みんな体感レベルで貧しくなっているわけだし、そもそも、今後、幸せになることなんてあるのか、という。子どもが生まれたとて、いつのまにか誰かに命名されていた「台湾有事」とかいう何かにかこつけて、兵隊として消費されてしまいそうな気すらする。いや、そうならなくても、今から生まれてくる子どもが、年金だの、大学の高い学費だの、払わされ続けるのは可哀想だなと思う。生まれること自体は嬉しいことだけども(というか、それは「嬉しさ」とかで測れるものでも、もはやないのかもしれませんが、)あんまり可哀想なことにはしたくない。わたしもギリギリZ世代に入ったり入らなかったりする世代だけども、そういう意味で、あんまり未来に対して、希望も、欲望も、持てない感じがする。

 

そういうわけで、新年から、気力が少し萎えてしまっているのですけども、まあ、絶望している限りはこれ以上絶望しなくてもよいのだし、むしろ、そのことを希望に、春の訪れを待って低体温ながら生きながらえたい次第でございます・・。

 

 

「あてにならない時計」と書いてある、



 

コロナ禍の私的振り返り その2

 仕事の関係で、コロナ禍のアート業界の趨勢について調べている。

 仕事の中身自体は、いつ、緊急事態宣言が起こって、いつ、まん延防止措置が取られて、それがどういうもので、AAFではいくら助成金が交付されて……というような、いわば客観的な事実関係を洗っていくという作業をしているのだけれど、仕事をしていると、自分の身の回りで起こった、ごく主観的で個人的な出来事についても、やっぱり、思い出してしまう。

 そんなわけで、当時の演劇関係のラインやメールなどを読み返してみる。私個人にも、当時の演劇仲間にも、相当に疲労が溜まっていく様子がはっきり示されていて、ちょっと見ているのが辛い。演劇は何回も中止になり、その度に関係各所に謝罪の連絡を入れたり、国のガイドラインに応じて消毒剤をあちこちから手配したり、ときとして「自粛警察」的な人から何度も連絡が送られてきたり、あるいは立場の弱さに乗じて金を持ち逃げされたり、誰がどう見ても、摩耗している。

 いや、わたし(たち)が摩耗しているというのもそうだが、それだけでない。皆、摩耗していた。自粛警察みたいだったあの人も、金を持ち逃げしたアイツも、皆、摩耗しているようである。おそらく、あちこちで、そういうことが起こっていたのだと思う。ミクロなレベルでの、いわゆる「分断」が、顕在化しないにせよ、あちこちで生まれていた。だったら、感染とか元から諦めて、高円寺で花見でもしていたほうが良かったのかもしれない。

 

 新型コロナは感染症法上の5類へと移行し、街ではマスクしていない人の方が増えてきており、2024年の1月現在、まあ、ほぼ「収束」したといってよいと思う。少なくとも、世の中では、「収束」したということになっている。普通の日常は、コロナ禍からの回復という意味に限っては、取り戻されつつある。
 ただ、コロナ禍で失ったものは、計り知れぬほど大きく、「あのときコロナがなければ」と思うことは度々ある。コロナ禍がなければ、(こればかりは分からないが、)まだぺぺぺの会に居続けていたような気はするし、バーゼルにも1年くらいは留学できていただろう。

 

 なにか、オルタナティブな未来を生きている感覚が2021年ぐらいからあって、どうも、アクチュアルな感覚を欠いているようである。かつて思い描いていた現実の方が正しくて、リアルな現実の方がむしろ、私にとってのアクチュアルな現実からズレている。「収束」と言えど、コロナ禍で生まれた亀裂も、分断も、何も、収束していない。亀裂によって生じた断層が、ズレたまま、二度と戻らないように。

 

 この2年間は博士論文を書いていたこともあって、演劇からやや遠ざかっていたけれど2024年に入ってから、ようやく、ゆっくりと考えるだけの時間ができて、演劇に関わっているときの自分の時間が動き始めたような気がしている。(逆に言えば、この2年間は、同じところをぐるぐると思考が回っていた気がする。螺旋的に上昇していた可能性もあるし、下降していた可能性もあるけれど、私には分からないし上とか下とかそういうものでもないのかもしれない。)いずれにせよ、ミネルヴァの梟が飛び立つ今や黄昏時である。

 いや、黄昏時というより、むしろ、斜陽という言葉のほうが頭に浮かぶ。「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」という太宰治の言葉も、頭を擡げる。だけれど、夜道に日は暮れない。どうせそのオルタナティブな現実からのズレ感は、忘れることができない。だから、2024年は、忘却されつつある亀裂に向かって、むしろ一歩進んでみたい。現実の「現実」の方を、地に足つけて、強かに生きていきたい。

 

 

 

 

 

斜陽

 

 

 

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貧乏などをオープンにする

研究したくない日、というのはときどきあって、今日がその日である。

自宅の作業部屋の机に向かっているのだが、関係のない演劇の動画を観たりしてしまっていて、原稿のwordファイルを開く気になれないでいる。だから、今日は、今年立てた目標について、ここに書き記していきたいと思う。

 

年の頭に、2024年は色々なことをオープンにやっていく、という目標を立てたのだった。これまで仲間うちだけでやっていたことを、もう少し広い範囲の人が参加できるようにしていこうと試みである。

まずその取っ掛かりとして、ラジオやTwitterのスペースを、年末にやってみたのだった。(いい加減なことを私が喋りまくっていて、けっこう恥ずかしいのですが、よかったらぜひ)

t.co(読書会を一緒にやっているともだちと、ラジオをやってみた)

 

2023年は、比較的クローズドな形で読書会だの、作品制作だの、やっていたのだけれども、やはり、議論したことや、制作したものは公にしないと、社会に差し戻していくことはできないなあと、昨年を振り返って改めて感じたのだった。

クローズな形での議論は、継続していくと共通の言語ができてくるし、闇雲に(一方的に匿名で)攻撃されたりすることもないので、プライベートなものごとを含むトピックについて議論するときには向いていると思う。ただ、その一方で、議論を重ねていくなかで、だんだんとそれぞれの考え方がすり合わされていって、やがて自分の考えが変わる機会は減っていくようである。

それはそれで、決して悪いことだとは思わないのだけれど、似た考えの人が集まっているだけなようにも思えて、少し、物足りない感じが、私としてはしてきた。だから、今年は、そういう仲間内での議論だったり作品だったりを、ときどきオープンにしてみたいと思っている。

 

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演劇のチケット代が最近高い。

豆腐やモヤシ、タレのついていない納豆ばかり食べている私は、4000円も払って観劇に行けなくなってきた。だから、自分がやる演劇は、劇場とかではないところを借りて、チケット代も1000円くらいにできたらと思う。支援したい人はカンパ箱に入れてもらって、金がなくてチケット代が重たく感じる人は、そのカンパ箱から支払ってもいいです、ということにしたい。

 

こういう制作的なこと、いくらでも思いつくけども、演劇業界で、こういう試みをやっている人がいないというのは、どこもやっぱり苦しいのだろう、と思う。

 

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「オープンにしていく」のと関連して、最近わたしは、自分の貧乏さをあんまり隠さないようにしようと思っている。

基本的に、資本主義社会においては、貧乏であることは公言しないほうが、(金銭に限らず)あらゆる意味での投資が得られやすくなるので、お金は入ってきやすいと思う。人も金も、いかにも儲かっていそうな人のところに集まってくる。

演劇の場合だって、人気の劇団はやっぱり一度観にいきたくなるし、誰も観に行かないような劇団は、あんまり足が進まない。つまり、お客さんが集まらないから閑古鳥が鳴くのではなくて、閑古鳥が鳴いていそうだからお客さんが集まらないのだ。

だから、悲しきかな、いかにも儲かっていそうで、人脈もあって、困ってなさそうにするのが、こういう、くだらない社会を生き抜く上では最適解なのだろう。

だけれど、それこそが、社会のくだらなさの延命装置になっているのだと思う。ほんとうは、困っているときには困っていると声に出して言った方がよいはずなのだ。同じように困っている人同士で助け合えるかもしれないし、困っている人同士がつながり合って、法律や制度を変えたりできるということもある。あたかも金持ちであるようなフリをして、変なやつがたくさん集まってくるほうが、よっぽど、わたしは、おっかない。

貧乏や貧乏くさいことは、恥ずかしいことでは決してない。貧乏を隠して、誰とも助け合わず、社会の仕組みを変えようともしないことが、何より、わたしは、恥ずかしい。


……だから、貧乏であることや、困っていることを、なるべく今年はオープンにしていきたいと思います。

 

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ドイツ語で公共性は、Öffentlichkeit(エッフェントリヒカイト)であり、その語源のÖffnen(エフネン)は、英語のオープンと同語源であるらしい。たしかに、どちらもゲルマン語だけあって、発音も似ている。だからまあ、それに託けるかたちで、今年は、いろいろなことをオープンに開いていって、結果として公共性に資する活動ができたらいいなあと思っている次第であります。

 

 

 

今日の夢にはくらげが出てきたな、